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君たちはどう生きるかのrichardのレビュー・感想・評価

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
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わたしたちはどう生きても正解でありながら、
その反面、どう生きても不正解なのかもしれない。
それでも人類は連続の不正解をたたき出しているようで、実はギリギリの正解を選び続けているのかも。
大人はずるいな、あんたたちがこんな世界にしたくせに、次の世代のわたしたちをこうやって説いてくる。そしてそうやって、自分だって大人と言われる年齢になっているくせに、いつまで経ってもその自覚を持たず(持てず)にふるまっているわたしもずるい。

ここに書くことはすべて個人的意見だ。独り言。
これを持って誰かの世界と戦うつもりも自分の王国を築くつもりも毛頭ない。だけど残しておきたい。インターネットっていう情報の海に、火事がつねに起きてるみたいなこの場所に、この日映画館で感じたことを記録しておきたい。「あれってこういうメッセージ性?!」だとか宮崎駿の出生についてだとかプロデューサー鈴木敏夫との関係性だとかは正直わからん。そういう調べないと出てこない情報はいったん置いておく。そこまで深堀りできる知識も余裕もない。ただ作品を通して純粋に感じたことだけを散文的ではあるが記したい、と思った。しかしとりあえずまあ、目に映るすべてのことはメッセージ、だよな。

宣伝についてはいろいろな意見があるし、鈴木敏夫も案外そんなに深く考えていないかもしれないが、そもそも映画の予告を作るのってむずかしいし、予告の時点でここをこう見てくださいみたいなのが、昨今の映画にはあるだろう。それこそ「令和で一番泣ける!」とか「この夏最大のミステリー!」だとか言っちゃうわけで。この映画を観て思ったけど一番は、予告でどこを切り取ってもそれは正しくはないような気がするってことだった。
映画観たって言って、どうだった?って聞かれて「面白かった・面白くない」「分かる・分からない」だけで語れるほど単純なんかじゃないよなあ創作なんて。でもそれだけで答えねばならないのだとしたら間違いなくこの映画は分からない側の作品だ。ただそれを分からないままにするべき作品では到底ないはずで。
ある意味よく分からんって言うのは感想として正解。

しかし宮崎駿にはジブリってブランド力(りょく)があるわけで、その価値・評価基準をつけてきたのはわれわれ大衆だ。だから「こういうのをつくってほしかったんじゃない」とか「もっと見やすいほうが大人も子どもも楽しめる」とか「お金を返してほしい」とか、時間の無駄、とかいう感想も見かけたが、創作をしていればそういうのは避けては通られない。まあでも映画を観るってそういうことやろとも思うけど。ある種ギャンブルであり、不倫騒動と同じ。俳優やアイドルを信じてお金をつぎこんできたのに、そういうことがあると裏切られた!と思う。それはその俳優の価値がそういう〝無垢〟なところにあるから。それを売りにしているわけだから。松本人志が不倫しても誰も金返せなんか言わん。かつてまっしろな短いドレスを着ていた元アイドルや清純派俳優がそれをするから、その創作物を買っていたファンは〝返金・返品〟を求めるのだ。それと同じ。(同じは言いすぎか、でもほぼ似たようなものだと思う)

めちゃくちゃ怒っている人たちはそのジブリというエンタメがずたずたに引き裂かれたからだ。信頼して、それを裏切られたと思ったからだ。実際裏切りなんだろう。わたしはよく分からん映画が好きだし、メタに弱い。解釈の余地がありあまるくらいのほうが観た人の内面性がグチャグチャに見える気がして好きだ。同時にそこまでジブリファンではないからこそそうした裏切りを感じずにいる。(好きなジブリ映画はある、ただそれがたまたまジブリだっただけで、ジブリ自体の熱狂的なファンではないということ)
でもなんとなく思う。〝みんな〟が観たいと思ってる作品をこれがラストです!って言いながら持ってくるような人には思えない。

それでもこの映画は宮崎駿の遺書と言っても間違いはないはずだ。次作にいくら期待したって、彼がいつまで生きてゆけるかはわからない。それを彼自身も理解しており、最後にやりたいこと・伝えたいことを作品につめこんだんだと思う。
集大成とは言い切れないかもしれないけど。
アニメ、というか創作への警鐘というか。
「これはこうですよ」と言われなければ受け取り方も分からない(と、作る側に思われている)わたしたちが、変わるための物語でもある。
エンディングの米津玄師は、解釈のうちのひとつのような気がした。地球儀は映画館で初めて聴いたが、たぶんピアノのきしむ音がときどき鳴っていて、その音に胸がきゅっとなる。ライブハウスでDJが流すDTMも好きだけど、結局のところこうした人の繊細な揺らぎきの音を感じるときに心が揺さぶられるのだ、わたしは。それで思い出す、わたしたちの足もとはいつだってゆるくぬかるんでいるということを、グラグラの石ころの山に足もとをすくわれるということを。

わたしたちは自分の目で確かめてから決めなければいけない。自分の意志で。
タイトルにそこまで深い意味はない。と思う。
「どう生きるべきか」なんて。そんなことはいろんな作品に問われながらわたしたちは生きてきたはずだし、宮崎駿も今までの作品を通してずっと、ずうっと語りかけてきたんだ。

そういえば映画「スターフィッシュ」を観たときに〝陶酔したレビュアー〟という言葉をどこかで見かけて、そうかわたしはそうなのかと自覚し少し落ち込んだが、まあやっぱり実際そうなんだろうし、好き嫌いの分かれる作品ではあるし、しかしどの作品も総じてそうだとつねづね思っている。
分かるからいい観客なわけでもないし
分からないからだめな観客なわけでもない。
分かるからいい作品とも言い切れないし
分からないからだめな作品とも言い切れない。
ただ、わたしは、この映画を観てふいに涙を流した。
生きるっていうのはそういうことだったのか、と思う場面がたくさんあり、これまでの人生で何度か死にたいと思ったことや自分を傷つけたことを鮮明に思い出し、それでも生きていてよかったと思った。自殺したあいつのことも、事故に遭ったあの人のことも、忘れることはない。ただ、どんどん薄れていく。声が思い出せなくなる。姿はあの頃のままで止まったまま。思い出はどこかに消えゆく。そのたびに、もういいよと言われているような気がするが、いなくなった人が語りかけてくれるなんてわけもなく、取り残されたわたしは手もとにあるちっぽけなこの石ころのようなものを握りしめて得る掌の痛みでしかおまえのことを思い出せなくなる。いつかはきっと、きれいに忘れてしまうのかもしれない。それでも、わたしが忘れてしまっても、どうかあなたはあなたの楽園で、その輝きをやめないでいてほしい。
そしてわたしは、その楽園との線引きをこの先もしつづける。

一人で観たら消化しきれなくて具合が悪くなってしまいそうな作品だけど、「面白かった」「面白くなかった」これを言うだけで絶交しちゃいそうな雰囲気があるからなかなか言い出せないな。
でもいい作品だった。
かと言って、夏休みの時期に評価が高くなりじゃあ家族で行こうか、などとおとなりのご家族が言い出してしまっていたらそれはあわててとめるかも。仮面ライダーとかプリキュアとかにしてほしい。でもそれは大人は退屈だよな。むずかしいな。
風邪ひいたときに観る長い夢みたいだった。子どものころに観たジブリもそんな感じだったような気もする。

宮崎駿って作ったもの壊すの好きやんな。
それこそ引退宣言みたいなものが画面通して伝わってくる感じした。見覚えのあるジブリ作品の建物や景色が、ばらばらと崩れていく。
この世界は創造と破壊の繰り返しだ。
世界はとてもアンバランスで、指先ひとつで壊せてしまう。それはわたしたちの心も同じ。
それでも、こんな世界でもわたしたちは生きていくしかない。生きていかねばならない。こんな世界でも美しさを見出したり、自分が嫌になっても他人に認めてもらったり、そうしてなんとか生きていく。

この作品を観て、わたしは涙を流した。
その涙の正体がなんだったのか、正直もう分からないし、そういう感性を持っている自分でよかったとまでも思わない。でも、自分の中の神話のようなものをこの先も丁寧に丁寧に守っていきたいと思ったし、
目に見えないものや
言葉で表現できないものを
伝えることのできる人間になりたいと思った。
伝えることができなくても伝えるすべを探しつづけていたいと思った。



……疲れた!
あとはもう箇条書きになるがネタバレを含む気になった点をコメントで挙げて終わります。もっとスタイリッシュにレビューしたかったのにな。わたしには到底無理でした。
ただ、宮崎駿がこれまで背負ってきたアニメーションの可能性の無限大さとかアニメーションだからこそできることとか、そういうものを肩から降ろしたという感じ。それを等身大で感じ取ることができたような気がするし、その重量感たるや…

感じることも、考えることも、やめないでいたい。
richard

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