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君たちはどう生きるかのあのネタバレレビュー・内容・結末

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます


 
⬛︎『君たちはどう生きるか』という映画

テーマがテーマだけに難解だとか、面白くなかった、駄作などという意見も散見されるが、
ジブリに対する固定観念から、娯楽やエンタメとして鑑賞した方の大半は釈然としないかも知れない。

今作は、アートや哲学的観点と言った、これまでのジブリを踏襲しつつも覆す、比較的後者の趣向になっているように思われる。
極端に意見が二分し易い、妙で特徴的な作品であり、
逆に理解が深まれば傑作として、観る人間の心に克明に刻まれる。

スクリーン上では、現実世界とジブリ特有のファンタジー世界とが混在する。反復しながらも、説明的で媚びなどの余分なものを徹底的に削ぎ落とした、洗練された世界観であり、
故に、場面毎の何気無い台詞や描写などの、意図されているであろう引っ掛かりを都度、解釈し紐付けられるかが要点になる。

⬛︎ 作品の設定

設定として、宮崎駿自身をモデルに制作されているらしく、宮崎駿がこれ迄に影響され、感銘を受けた作品たちが、好きなものをかき集めたおもちゃ箱みたく、ブラッシュアップされ、夢のオマージュを遂げることで、まるで眠りの中で夢を見ているような、あべこべな世界観のようで、どこか首尾一貫したものを感じさせる。

大叔父が宮崎駿自身であり、意志を継ぐ後継者を探している。その後継者である眞人は自身が理想とした、人物像であり、少年時代の宮崎駿を表している。
理想の少年に自身の後を継がせたい。

宮崎駿は精神世界で自身を許し、否定している。観測者として己同士の対話を俯瞰する、そんなさまを具現化させたような作品である。

前述の通り、宮崎駿が影響を受けた元となる作品や、その設定との多少の矛盾はあるのかも知れないが、いや、絶対的にあると思うが、
大前提として、作品というものは元より創造物であり、宮崎駿自身の作品である。

故に理論理屈を徹底的に並べ立て、矛盾点を批評するのは幾分野暮であり、ナンセンスに思える。
都合の良い主観的解釈で展開される、受け取り側の鑑賞もまた必然的であり、こういった関係性は作品としての魅力のように感じる。


⬛︎ 作品の世界観

個人的に気になった点のみを掻い摘んでいく。
これら一連は独自の身勝手な解釈であり、この考察は専門的観点からすると、表現が抽象的で適切ではないかもしれない、ましてや的外れに思われるかも知れないが、綴りたい。


【異世界について】

物語が展開される中で、幾つかの世界が存在するが、
これは恐らく六道輪廻に於ける、輪廻転生であり、故に仏教の思想が強く反映された世界観であり、ここでは割愛するが、細かな設定は日本神話などから由来しているようにも思える。

⚫︎眞人が住む世界 ⇨ 『人間道』

⚫︎わらわらとペリカンの世界 ⇨『餓鬼道』
わらわらたちが上の世界に昇っていく
=童子(わらし・子供)の魂が転生して、新しい命となるが、ペリカンに食べられるわらわらは転生出来ずに流産、死産など。
壮大な食物連鎖の縮図であり、殺さないと自身が飢えて死ぬ。

⚫︎地獄の門、海の世界 ⇨ 『地獄道』
地獄の門の洞穴の先に、真の地獄の世界があったのかも知れない。下手に地獄の悍ましさを強調するよりも、洞穴の闇のみで感じさせる畏怖の方が絶対的に良い。

⚫︎インコ達が支配する世界 ⇨ 『畜生道』
本能のままに支配し、搾取する動物たち。理性を欠いた醜さは、人間たちの愚さを彷彿とさせる。

⚫︎大叔父が観測する世界 ⇨ 『天道』
生命の根源であり、始まりの世界とも言える。インコ大王の付き人が野生のインコを見て「ご先祖様だ。。」という台詞もあり、正に楽園と言える光景。

残りの『修羅道』にあたる世界は?
六道はもともと初期仏教では、修羅道を除いた五道だったために、五道で設定した。
または、修羅道は争いの世界であるために、人間世界だろうが、冥界だろうがどの世界でも醜い争いは行われているという、全体を表しているのかも知れない。


【母ヒサコとキリコが若返っていた理由は?】

ファンタジー世界だから。と言ってしまえばそれまでだが、
母ヒサコは過去に一度、一年間程この異世界に迷い込んだ事がある。そして、ヒサコは消えた時と変わらぬ姿で帰ってきた。
つまりこれは、ドラゴンボールの精神と時の部屋や、浦島太郎の竜宮城のような、時の流れが現実世界とは異なっており、
ヒサコが過去に迷い込んだ時の記憶がセーブデータのような状態で、その想いや念と共にヒミとなって現れたのでは無いだろうか。

そしてキリコは、現実世界の年齢ではおばあちゃんだが、異世界では、年齢が自動的に異世界仕様に変換されて、若返ったのかも知れない。

少なからず死人では無い、まだ生きた人間が異世界で踏み込んで、タダでは済まないことは容易に想像出来る。

おばあちゃん達を模した6つの人形は、キリコの記憶の断片、名残りのような、身近な人たちの記憶を具現化させたもののような気がする。

そして、キリコがお守り代わりになると言っていた、このおばあちゃん達の6つの人形は、六道輪廻の観点から、六地蔵を彷彿とさせた。
(六地蔵はあの世に行った子供を守ってくれる役割がある)

【青鷺の存在とは?】

北アメリカ北西部の部族に伝わる話ではアオサギは決断力のシンボルとされており、
作中の青鷺も「青鷺は嘘つきだ。」と発言の信用性を曖昧に濁し、惑わせている。

つまり、眞人を導く存在であるが、最終的に決断するのは眞人自身だと、眞人と己が運命とを向き合わせるコネクト的な、重要な存在なのである。
この結論に至ると、必然的にポスターが、眞人ではなく、青鷺なのが理解出来る。

嘴から覗く、あの鋭い眼光は、見た人間其々に眞人同様、自己の生き方と向き合わせる為の伏線的メッセージのようであり、映画のタイトルはそのまま直接的に受け取って良いメッセージなのである。

因みに、
人生最大と言える、試練を乗り越えた眞人は無事に人間世界に帰ると、インコ達のフンを大量に浴びるのだが、鳥のフンは、幸運の訪れを暗示しており、
眞人の人生、これからの未来の見通しが明るくなるという、なんとも前向きな終わり方だった。


⬛︎ まとめ

争い、傷つけ合う事で生まれる、憎しみや悲しみ。そんな悪意に満ち溢れる一方で、対極である愛や慈しみ。喜び分かち合うこと。それら善意も相応に同居する人間たちの現実世界。

勧善懲悪からは縁遠く、運命が複雑に交錯する曖昧模糊な世界だが、往々にして、人間はそれぞれが程々に善人で、程々に悪人である。
それでも、その都度選択を強いられながらも、現実世界を受け入れ、不可逆な今を生きて行く。

貴方は今をどう生きますか?

最初に綴ったような、釈然としない感情への救済では無いが、この作品の内容がよく理解出来なくても良いと思う。

事前広告や事前情報、設定の解り易さというものは作品の解釈、方向性を固定し、詰まりは"正解"を作ってしまうために、みんなそれぞれが、個人の解釈を正解の方へと運ばなければいけないという、集団心理に阻害されてしまい、結果、その習慣から的外れな黒い羊になってしまう。

人間心理の流れは、必然的に傾斜や圧力を設けられて、流れる方向が著しくなりがちである。

しかしながら、今作は特殊であり、難解というよりも、元より正解はそもそも用意されていないのでは無いだろうか。

人生のゴールに絶対的なものは無い。だから自身の感じたままに、事前情報や専門的知識を持たない、着の身着のままで自分だけの心の揺れ動きを感じる事、自分自身の意思を尊重してあげる事。これが、最も大切な汲み取るべきものだと思う。

自己の人生に関心を与えること。

普遍的且つ惰性的な現代人を敢えて、半強制的に人間らしさを確かめるための、人生の佳境へといざなってくれた、至高とも言える極致だった。

決して気を衒ったものではない、自己探究の果てがたまたまここだった、この形だったのだろう。

宮崎駿自身、「貴方は、どう生きますか?」と投げ掛けると共に、「僕はこうやって生きている!」という意志表明のようでもある。

正直、全てを理解出来たわけでは無いけれども、
初見の感想よりも鑑賞後の数日間、反芻した現在の方が、より作品に対する感動が増幅するという、何とも奇妙な後味に、この味わった事のない違和感に浸る気持ちを禁じ得ない。
あ