ambiorix

君たちはどう生きるかのambiorixのレビュー・感想・評価

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
3.8
言わずと知れたアニメ界の大巨匠、宮崎駿監督のおよそ10年ぶりとなる最新作『君たちはどう生きるか』。そのうち見に行こう見に行こうと思っとる間にはや2ヶ月が経過、幸いにも今日までこの映画に関する本格的なネタバレや評論とほとんど接することなく生きてこれたわけだけど、先に見た人たちから漏れ聞こえてくるのは「意味不明」だの「エンタメ性に乏しい」だのといったネガティブなコメントばかり。なんだけど、ちょっと待ってほしい。宮崎駿の映画が意味不明なのは果たして今に始まった話なのか、と。代表的なところでいえば、『紅の豚』はあれだけの大風呂敷を広げてみせたわりにスケールの方はさして広がらず最後は豚とおっさんが波打ち際で取っ組み合って終わるお話だし、『崖の上のポニョ』なんかは後半以降まともなストーリーを語ることをなかば放棄してしまっているし、『ハウルの動く城』にいたっては何度見てもストーリーを微塵も理解できない(笑)。なので俺は言いたい、お前らは同じく意味不明なハウルやポニョのことを面白い面白いといってありがたがっていたじゃあないか、と。なのに今回だけこうまでボロクソに叩かれるのはなぜなのか。それに関しては、ここ10年20年の間に観客の感性が変化して、みんなが「作品の中にあるわかりやすい答え」を安易に求める方向へとシフトしてしまったからではないか、と俺は踏んでいる。なんかよくわからないけどすごいものを見ちゃったな…みたいな楽しみ方が出来なくなっている。そういう人たちにとっての本作というのは、やっぱりどこまで行っても意味不明だし、見ていて苦行でしかないのかもしれない。けれども先ほども申したように、宮崎駿という作家は、いわゆる説話論的な面白さや伏線の巧みな回収、などといったストーリー映画のテクニックに対してあまり関心を持っておらない人なので、いまさらその部分を突っついてとやかく言うのもどうなんだろうとは思う。
実の母親を火事で亡くした主人公のマヒトは都会を離れ、母の田舎にある広大な屋敷に引っ越してくる。彼はそこで父の再婚相手であり母の妹でもあるナツコと出会うのだが、まず驚いたのがこの一連のシークェンス。端正に切り取られたフレームの中で登場人物たち(主にマヒト)が一方向に向かってズンズンズンズン歩いてゆく姿を長回しでもって淡々と捉え続ける、非常に素朴な演出手法が取られている。普通に考えればこのくだりをこうもしつこく時間を割いて描画する必要なんかないし、カットを割ったりジャンプカットで飛ばしたりするなりすればいい。それならなぜ作り手はわざわざこんな地味でしち面倒くさい見せ方を選んだのか。俺はここにアニメーターの矜持のようなものを見た。昨今主流のカッコつけた演出や小手先のテクニックに対して(真っ先に思い浮かべたのがMAPPAのアニメ)、いわばパラパラ漫画的なシンプルきわまりないアクションの連鎖をぶっつけること。しかしながら、こんな何の変哲もないシーンにわれわれ観客が心を動かされてしまうのはむろん「絵が動くこと」の原初的な驚きや楽しさがあるからで、随所に加わる重さの絶妙な表現も相まって「やっぱりジブリってすごい!」と心の中で拍手を送っていた。さらに、開巻の火事のシーンで疾走していたマヒトの身体の動きが母の死を境に緩慢になり、第二部が始まるぐらいまでほとんど激しい動きを見せなくなる、というのも見逃せないポイント。本作『君たちはどう生きるか』は、主人公が色々な試練を潜り抜けるなかで成長していく、いわゆるビルドゥングスロマン(インスパイア元の小説も同じジャンル)の体裁をとっているのだけれど、そのビルドゥングスの度合いをアクションや語り口のスピードの変化に仮託して語っている作品でもあるからだ。
前作の『風立ちぬ』に引き続き、またぞろ物語の舞台を戦時中の日本に設定した宮崎駿監督。これ以外の作品でもたびたび戦時中の世界を背景に描いてきたわけだけど、戦争に対するこの異様なオブセッションは一体なんなのか、長らく疑問だったのだけれども、今回ようやっとわかった気がする。彼にとっての戦争というのは「どうにもままならない現実」や「生と隣り合わせの死」についてのこの上なく簡潔なメタファーなのだ(1941年生まれの宮崎が「戦争に間に合わなかった世代の日本人」であるというところにも関係があるかもしれない)。そこに対置されるのが、第二部で出てくる現実世界とは隔絶されたファンタジーの世界だ。ナツコの大叔父は書物という名の虚構に耽溺しすぎたかあるいは現実のあまりのつらさから目を背けてここへやってきたし、継母のナツコは自分に背負わされた「女はこう生きねばならない」という抑圧的な社会規範に耐えられなくなった結果虚構に閉じこもることを選んだ。面白いのは、つらい現実から逃げて逃げて逃げ込んだ先の虚構も現実とさして変わりがなく、甘美なユートピアとしては描かれておらないところ。
映画の観客がもっとも戸惑うもののひとつが、この異世界パートにおける支離滅裂な展開の数々だろう。しかしプロット自体は「ある異常な状況下に突如投げ込まれた主人公がやたらと細かい世界内ルールに翻弄されながらもしぶとく生き延び、結果的に成長したりしなかったりする」という、ジブリがこれまで作ってきたそれとまったく変わらない代物だし、頻出するモチーフに関してもジブリファンにはおなじみのものが多い。地表のほとんどが自然に侵食され人間が住みにくくなってしまった世界(ポスト地球温暖化の世界)、集合体恐怖症的な生き物の群れ、落ちたら即死レベルの高所で繰り広げられるスリラー…などなど挙げ始めるときりがない。なかでも宮崎駿のフェティシズム、いやさ、もはや妄執の産物と言っても過言ではない「マザコン願望を過不足なく満たしてくれるママキャラ」に至ってはついにここまで来たかという感じだ。なにせ若返った実のママがヒロインとして登場するわけだから(笑)。本作『君たちはどう生きるか』は、これまでのジブリアニメ的要素をディスクジョッキーのごとくシームレスに繋いでみせたリミックスアルバムのような映画でもある。
物語の最終盤では、ファンタジー世界を創造・維持していたのがナツコの大叔父だったことが明らかになる。むろん、メタフィクション的に言えば、世界=作品を生み出したのは創造主たる宮崎駿その人なわけだから、あすこの場面は彼のお気持ち表明の場として読むことができる。つまり、おれはこれまでずば抜けたイマジネーションを駆使して数々の傑作を生み出してきたのだけれど、そろそろガタが来てきたのでポジションを後進に譲りたい、と。笑っちゃうのが、セリフの中で「おれの子孫じゃないとだめ」と言っているあたりで、これはあの人に対する当てつけ混じりの叱咤激励なんだろうか。そして、作中で明確に後継者失格の烙印を押されたインコ大王とはいったい誰のことなのか…(いや、マジで誰なんだろう)。
と、ここまで書いたところで監督のインタビュー記事を読んでみたら「観客にはわけがわからないだろうし、私自身にもわけのわからないところがあった」かなんか言っていてびっくりした(笑)。まあこれは本人なりの謙遜表現で、小難しいことなんか考えないで気楽に見てね、ということを伝えたかったんだろう。もう少しうがった見方をするなら、目に見えたものに対して何かしらの意味を付与しないと気が済まない俺や岡田斗司夫のようなチンポ野郎どもに対して警鐘を鳴らしたかったのかもしれない。「意味のないもの=役に立たないものにはなんの価値もない」とかいう新自由主義的な風潮から「無意味の価値」を奪還せんと試みること。明確な物語や意味を持たず、表層の上をひたすらに横滑りし続ける超ビッグバジェットの実験映画。それが『君たちはどう生きるか』だったのだ。なんだけど、そうやって作り手の発するメッセージから何かを読み取り意味付けようとするその行為自体がここでは批判されていたのであって、これを突き詰めると何も言えなくなってしまうわけですが…。
ambiorix

ambiorix