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映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコのambiorixのレビュー・感想・評価

4.5
株式会社サンエックスが展開する人気キャラクター「すみっコぐらし」を映画化した、劇場版1作目の『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』(2019)と2作目の『映画 すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ』(2021)に続くシリーズ3作目。いきなり結論から言ってしまうと、3月29日からAmazonプライムビデオで見放題配信が始まった本作『映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ』(2023)は、社会派映画としてもストーリー映画としても、ちょっとケタが違うレベルの大傑作なのではないかと思った。以下にその理由を記していく。

・すみっコ=社会的弱者
劇中に出てくるすみっコたちが社会からのはみ出しもの、ひいては「社会的弱者」のメタファーであることに異論を唱える人はおそらくいないだろう。寒さに適応できず故郷の北極に住み続けることがかなわなかった「しろくま」、ダイエットに失敗し四足で歩くという理想像になかなかたどり着けない「ねこ」、脂っこいからという理由で手付かずのまま捨てられてしまった「とんかつ」、恐竜の生き残りであるという理由から出自を隠して生きねばならない「とかげ」、それとは対照的に自身のアイデンティティを決定的に喪失してしまった「ぺんぎん?」などなど。様々なコンプレックスや生きづらさを抱えた彼らすみっコたちは文字通り社会の隅っこで肩を寄せ合いながら暮らしている。

じつはすみっコぐらしの映画シリーズは、一貫して似たようなお話を描き続けている。こちらからあちらへ、あるいはあちらからこちらへと越境した先ですみっコたちが社会や世界から「疎外」されたゲストキャラクターと出会い、さまざまな障害を乗り越えながら「自己実現」を果たしていく…という構造だ。この骨子は今回もいっさい揺るぐことがない。しかし純然たるファンタジーの要素が強かった前2作と比べて本作が際立っているのは、疎外された社会的弱者の自己実現というすみっコぐらし自身が元からもつテーマと、本作から取り入れた現実的かつ普遍的なあるテーマとがみごとに共振しているからだ。

・資本主義を批判したマルクス主義的寓話
俺が本作の存在を知ったのは、5ちゃんねるのニュー速(嫌儲)板に立てた映画スレで見かけた「すみっコぐらしの劇場版3作目はブラック企業が生まれるまでのメカニズムを描いた優れた寓話になっているからぜひ見てくれよ」という書き込みだった。実際に本編はすみっコたちが工場でもってブラック企業も真っ青の重労働を課されるシーンが尺のほとんどを占めているのだが、しかしこれを単に、ブラック企業やそこで働く人たちの苦しみを描いたもの、という風に受け取ってしまうと、この映画が見据える射程の広さ、およびテーマ性の豊かさをとらえ損ねるはめにもなってしまう。

では、本作が本当に描きたかったものとは何か。それは「資本主義に対する批判」である、とはっきり言い切ってしまっていいだろう。ドイツの経済学者カール・マルクス(1818-1883)が『経済学・哲学草稿』や『資本論』のなかで述べた「資本主義社会に組み込まれた人間が疎外されていくプロセス」を、映画のプロットはほとんど忠実になぞっている。素晴らしいのはその資本主義批判を、いかにももったいぶったトーンで語ったり、(休日朝の女児アニメがよくやるように)あからさまなブラックユーモアを交えて語ったりするのではなく、あくまで子供向けアニメ特有のコミカルなトーンを保ったままスマートに描いてみせたところにある。真っ当かつ良質な娯楽映画を楽しみながら資本主義のお勉強までできてしまう、というものすごい作品なのだ。

・「必要労働時間」「剰余価値」「搾取」
ボロボロのぬいぐるみから外れて転がったボタンの運動に誘われるようにして、すみっコたちはくたびれたひとつの建物にたどり着く。そこはおもちゃを作る工場だった。くま工場長におだてられた彼らはなりゆきでおもちゃ作りの手伝いをすることになるのだが、くま工場長のノルマ要求がエスカレートしていくにつれて、資本主義の脅威が少しずつ牙をむき始める。ちなみに劇中の舞台であるこの工場はそのまま資本主義社会の縮図でもある。

労働者を馴致するためにくま工場長はあらゆる手立てを講じる。すみっコたちにおそろいの制服を着せて一体感を覚えさせたり、朝の体操などのルーティンを作ることで工場のバイオリズムに適応させたりする。さらに、すみっコたちを工場内部の居住スペースに住まわせた工場長は、通勤時間や貴重な自由時間までもを労働に充てさせようとする。マルクスによれば、労働者が1日生活するために必要な時間のことを「必要労働時間」という。しかしこのままでは資本家に儲けが生まれないので、資本家は労働者を必要労働時間以上に働かせる。ここで生み出されるのが「剰余価値」だ。この剰余価値が資本家の儲けになるのである。単にくま工場長のお手伝いをしている間はなんの問題もなかったのだけれど、生産ノルマが苛烈をきわめ、すみっコたちの必要労働時間をはるかに超える分量の剰余価値が生み出されるのと引き換えに、すみっコたち=労働者は工場長=資本家に「搾取」される状態へと置かれてしまう。本来なら自分が自由に使えるはずだった時間をいつの間にか資本家に売り渡すはめになるのだ。これがマルクスの指摘する資本主義の致命的な欠陥である。

さらにここで「疎外」の概念が登場する。マルクスのいう疎外とは「ヒトが自己の作り出したものによって支配されてしまう状況(労働疎外)」のことだ。本来なら生産の手段でしかなかったおもちゃ工場のシステムに次第に呑み込まれ、すみっコたちの方がこき使われるという逆転現象が起きてしまう。そしてそれによって「ヒト同士の関係がモノや貨幣などの利害関係を中心に回りはじめる(物神崇拝)」。のべつに工場のブースに縛り付けられ、お互いにコミュニケーションをとることすらままならないすみっコたちは、疎外のもっとも悪い状況に追いやられたと言っても過言ではないかもしれない。

・資本主義の成れの果て
くわえて本作がユニークなのは、行き過ぎた資本主義の成れの果てをユーモアたっぷりのビジョンでもって描いているところだ。資本主義の社会における労働者は働いても働いても一向に幸せにならない。その代わりに資本家がどんどん肥え太っていくだけだ。それを象徴するのが中盤、工場から脱出したみにっコたちが街にたどり着くシーンである。そこでは工場で生産された大量のぬいぐるみやロボットがスタンドアローンで動き、街の住人を怖がらせている。大量生産が必ずしも人々を幸せにしないこと、モノを支配していたはずの人々がモノに支配されること、という労働疎外的なシチュエーションを一発でわからせるこの上なく秀逸な場面だ。

資本主義が恐ろしいのは、それを停止させる手段が存在しないところにもある。劣悪すぎる労働環境にしびれを切らしたすみっコたちはくま工場長に直談判をする。
「外に出して!」「機械を止めて!」
けれどもくま工場長からの返答はない。なぜなら工場長もまた工場で作られたおもちゃのひとつでしかなかったからだ。ひとたび動き出すやいなや止まることなくひたすらに進み続け、もはや打倒するべき対象すら見当たらなくなってしまう。それが高度に発達した資本主義のすさまじさなのである。重度のうつ病を患った末に自死を選んだイギリスの哲学者マーク・フィッシャー(1968-2017)は主著である『資本主義リアリズム』の冒頭にこんな言葉を掲げている。
「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」

・資本主義にどうやって対抗すればいいのか?
それではすみっコたちやわれわれ観客はこのまま資本主義的ディストピアの前に屈するしかないのだろうか。弱者たる労働者は資本家の支配に甘んじているしかないのだろうか。そんなことはない。本作はこの絶望的な世界に対抗しうるかもしれないひとつの可能性を用意している。そこでカギになってくるのが、しろくまが子供の頃から持っていた熊のぬいぐるみだ。かつて工場の職人たちがひとつひとつハンドメイドで作り、生地がほつれたり破れたりするたびに何度も何度も生身の手によって修復されてきたツギハギだらけのぬいぐるみ。このアイテムを媒介にして、社会的弱者のすみっコたちと、じつは自分自身も弱者であったおもちゃ工場との連帯が果たされる。しろくまが地面に落ちた歯車をぬいぐるみの胸に付けるくだりを何度見ても泣いてしまうのは、弱者同士の連帯を「いらないモノ同士の接合」という身振りに託して描いてみせたからに他ならない。

弱者をとことん切り捨ててゆく新自由主義的な価値観からはどうしてもこぼれ落ちてしまう「いらないモノ」や「役に立たないモノ」同士でゆるやかにつながり合うこと。資本主義のシステムの悪どさをきちんと認識しておくこと。ひとりひとりがそう心掛けることによって、資本主義や新自由主義を打倒できないまでも、労働疎外や物神崇拝の度合いを軽減することぐらいならできるかもしれない。そんなともすれば楽観的すぎるポジティブなメッセージを残して物語は幕を閉じる。

・ポストクレジットに待つ衝撃のラスト
ところが、エンドクレジット後に流れる1分にも満たない後日談パートによってわれわれ大人の観客は完膚なきまでに叩きのめされてしまう。そこではすみっコの街を後にしたおもちゃ工場がいろいろな土地をめぐり、子供たちを笑顔にしているらしいことが語られる。そして最後の瞬間、「もしかしたらみんなの近くにいるかもね」という本上まなみのナレーションとともに、おもちゃ工場の顔が画面いっぱいに映し出される。これはもうほとんどホラーだろう(笑)。卑小な労働者どもがどれだけ抵抗しようが資本主義は決して滅びない。チンケな理論武装でもって資本主義を乗り越えた気になっているのかもしれんが、俺はお前たちのことをずっと監視しているからな、という資本主義側からの警告なのだ。決して答えの出ない問題に対する作り手の世界観のシビアさを見た思いがした。

何よりも恐ろしいのが、これを本来のターゲット層である子供の目から見ると単なるハッピーエンドにしか見えないところだ。一度は完全に挫折したおもちゃ工場が立ち直り、みんなを幸せにしているという、この上なくハッピーなエンドに。大人の観客の鑑賞にも子供の観客の鑑賞にも十二分に耐えうるこの解釈の二重性によって、本作『映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ』はディストピアを描いた凡百の映画のはるか向こう側へと突き抜けてしまったように思う。
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