後半、だいたい泣いていた
タイトルに惹かれて見始めたのだが、ちょっとこれは悲しいどころじゃなく苦し過ぎる。
▼以下、ネタバレ含む▼
大切な人の大切な人を、自身のちょっとした不注意で死なせてしまった主人公:アリソン
そんなアリソンの不運に巻き込まれ、大切な人を失ってしまった人たち
家族や子供の習いごとで人を乗せ、運転中にスマホで地図を操作して、、、というのは自分でもちょいちょいやっていることだ。ラジオの番組を変えたり、音楽を次の曲に飛ばしたり、エアコンの温度を下げたり。
そんなちょっと目を離すことを、結構やってしまっている身としては、やはり、アリソンを責められない。
不運といえば不運のなにものでもないが、迂闊、軽率、と言われれば、やはりその通りなわけで、、、
100%避けられなかった事故であれば、アリソンも完全に被害者になったのだが、あのちょっとしたよそ見で、事故にあい、自分は一命は取りとめたものの、同乗していた婚約者の姉夫婦は帰らぬ人に、、、
私のせい?
自分の過失を認めれば、婚約者とその家族からは、死んでも責められ恨まれ続けるだろう。
かといって、その事実を隠せば、彼らは慰め許してくれるかもしれないが、同時に、彼らを常に騙し続けているという自責の念に駆られながら生きていくことになる。
結果、アリソンは自分のよそ見のことは伏せ、悪いのは工事現場のショベルカーだと自他共に認めることになるものの、自分自身だけは騙し切ることができず、その罪悪感から、婚約者とその残された家族の元から去る、いや、逃げることに。
始まってしまった
生きていることが苦しみそのもののような毎日が
生きていていいのかもわからないような日々を、かろうじて生きるアリソン。
そんな娘と暮らす母。
そして、婚約者だったネイサン、その父、ネイサンの姉夫婦の娘もまた、悲しい日々をなんとか生きていく。
生きて、生きて、生きる
運命のいたずらで、分かれたはずの人生たちが再び絡み合い、もつれ、傷つけあう。
アリソンが去った理由が判明し、その過失を責めるネイサンの父。
なんとかやり直せたように見えた人生が、再び狂い出す。
残酷
しかし、認めたくなかった自分の過ちに、ようやく向き合わさせられた瞬間でもあった。
アモア・ファティ
ラテン語で「運命を愛せよ」
運命は選べないが、寄り添うことはできる
原題:A GOOD PERSON
邦題、素晴らしい