特筆すべき点は、今の世の中にあるものは全てないことだ。
未来世界だが古代世界にも見える。つまりそこに世界が作り出されている。これこそアニメ世界の真骨頂だ。
実写ドラマはあくまで現実世界の延長線上である。(現在ではCGの発展でアニメよりではある)ならばアニメーションで描き出すべきは、まるで完全な空想世界である。ナウシカでは人々の暮らしから戦争までもがすべて宮崎駿監督をはじめスタッフ等が作りあげた未来世界なのだ。
飛行船にしてもガンシップにしても素晴らしい空想っぷりだ。しかしながら現実世界の物理的な必要な装置は揃っているという工業的デザインセンスも光る大作だと言えるだろう。
最近のアニメに文句たらたらなのはナウシカのように一から世界を構築せずにキャラクターデザインに終始している日本アニメの現状だ。
サブカルであることに甘んじてオタク趣味の範疇から出ようとしない引きこもりのようなアニメ界にうんざりする。
ナウシカのように、メインカルチャーに食い込もうとする野心がない。つまらない。
後に作成されるエヴァンゲリオンは、ナウシカのような空想未来世界(現実の文化から一線を画した世界)を描かずに、現実現代社会における空想を描いた。つまりエヴァンゲリオンという嘘以外は本当(生活の文化、服装や習慣など)という特撮的な要素で作成された。
そこを混同した結果、全てが嘘で本当(画面に映るものは全てに理由付けされているアニメ)のナウシカに対して一部が嘘(説明されない部分は現実のそれが代弁することで補完される)エヴァンゲリオンという二律背反した要素を理解できずに未来世界なのに現代世界の武器を出したり、現代世界なのに物理法則を無視した小物、(人型ロボットなどの大いなる嘘ではなく、それを支えるべき世界観の中での嘘は大いなる嘘を陳腐化させる)を出して台無しにしていることが、わからなくしている。それに気づかないことが情けなくて滑稽である。
因みに宮崎駿監督は、エヴァンゲリオンに対する回答としてもののけ姫で現実世界(室町時代の日本)にて神と言う大いなる嘘を見事に描き出していると思った。(シシガミ等の神様以外では嘘をつかない。室町時代の風俗を正確に描いている)
これが、メインカルチャー(オタクではなく一般的な大人を振り向かせることができる文化)に食い込もうとする挑戦だったのだ。
ナウシカの特徴としてはキレイゴトの物語で大団円で幕を閉じることだ。ただエンターテイメントとしてはある程度、環境破壊や自己犠牲の精神を印象づけさせた上での結末なのでこれ以上ないと思う。
押井守監督や富野由悠季監督と、宮崎駿監督との大きな差はエンターテイメントとしてハッピーエンドにできるかできないか納得するかしないかだと思った。
富野由悠季監督だと、ナウシカは最後助からないだろうと思うし、押井守監督だと死んだか生きてるかわからかい結末だし、庵野秀明監督だと精神世界に移行して風の谷がどうなったか不明だと思う。
新海誠監督と宮崎駿監督の共通点は良くも悪くも大団円でまとめて話を終わらせることができるかだと思う。
ナウシカの翌年のZガンダムのごとく、ナウシカが精神崩壊して幼児退行して終わらせたりはしない点がジブリ映画の安心感でメインカルチャーが求めているものなのだと思う。(ただし、サブカル的な人間の自己矛盾などへの訴求は行う)
新海誠監督は、大団円で終わらせるが社会に対する問いかけは弱いと思う。
※富野由悠季監督もターンエーガンダム では素晴らしい大団円を描いている。
宮崎駿監督もナウシカには思い入れがあるのか胸がでかい。ナウシカ以降のジブリ作品ではあまり女性の性的な魅力を押し出す描写は少なくなったのである意味貴重だと思う。
クシャナの影響で、榊原良子がハマーンを演じたのだろう。ただクシャナとハマーンでは登場時間が違いすぎてハマーンはクシャナのようにミステリアスでは終われなかった。(劇中でクシャナのセリフも少ない上、説明がほぼない。)
宮崎駿監督は、ナウシカークシャナのような女の関係が好きなんだろう。サンー烏帽子御前、湯バーバーゼニーバ、ソフィー荒地の魔女のように正反対の女ではなく95%は同じ要素で5%で道を違えた女の戦いである。
特にナウシカとクシャナはほぼ同じ性格と容姿だが相入れない信条の元、対立している。ナウシカが、「乗れ!」と叫んだシーンではおそらく逆の立場でもクシャナはナウシカを助けただろう。
ナウシカが、ガンシップを操縦している時は尊大な命令口調になるのもクシャナと根っこは同じでナウシカ自身も戦闘中は人の上に立つ者としての顔を覗かしている。
最後に、超未来の宇宙船を古代遺跡として登場させるのはハイセンスだと思う。今のアニメだとそれこそ戦艦大和などを遺跡として登場させたり(二番煎じ)と興醒めである。
ナウシカは永久に語り継がれるべき伝説的なアニメーション映画である。