古川智教

パスト ライブス/再会の古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

パスト ライブス/再会(2023年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

もし、今(映画が描く時間)が現世であるとするなら、前世に思いを馳せたときにはあらゆる可能性が噴出することだろう。故にヘソンは夜のバーで、もしかしたら自分たちにあり得たかもしれない可能性と、前世はどうだったのかの想像をノラに語る。
可能性に対して、「さよなら」と言うことはできない。可能性や想像を押し止めることはできはしない。ヘソンが24年以上もノラを想い続けるように。
では、互いを思いやって「さよなら」と言うことが出来るようになるためにはどうすればいいか。映画ならではの切り返しを用いよう。
もし、今(映画が描く時間)が既に前世であったとするなら、という可能性である。映画のタイトルが「パストライブス」である時点でこの映画で流れる時間は前世ではないのか。
この可能性は唯一、可能性の性質自体を一変させる。
また会うことが分かっていれば、「さよなら」と言うのは容易くなる。想いを断ち切る必要はないのだから。
来世(今が前世であれば、現世)では結ばれることが分かっているのであれば、「さよなら」と言うことはむしろ必要なことでさえある。「さよなら」をして、来世に至らなければ、今度は結ばれない可能性が浮上するのだから。
ラストシーンで、来世は「分からない」とヘソンとノラは言うが、この「分からない」には既に前世と来世が前提となっていないか。再会のための「さよなら」という逆説。
それはまた過去に遡って、過去の時点(24年前の子供時代の別れ)で、「さよなら」と言うことでもある。なぜなら、24年後の今このとき再会を果たしているのだから。過去の時点で「さよなら」と言うことは、今このときの再会を約束していることになりはしないか。
可能性と時間のパラドックス。
ニューヨークに旅立つ前のノラとヘソンがデートをした公園を思い起こそう。天に向かって大きく口を開けた顔なしの彫像、顔の部位がばらばらに配置された壁面。そう、時間はばらばらの顔の部位のように束ねられないものであり、前世と来世を一望の下に収めることなど不可能なのだ。つまり、全体としての時間の顔を見ることはできないということ。
24年後のニューヨークの公園では、ノラとヘソンの背後にある壁面に互いに背中を向け合って座る二人の人物が彫られている。やはり、顔を見ることはできない。
だが、時間の顔を見ることができないということは、今流れている映画の時間はあくまで前世と来世を含めた顔の一部に過ぎないという事実を証している。
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