ひろゆき

パスト ライブス/再会のひろゆきのレビュー・感想・評価

パスト ライブス/再会(2023年製作の映画)
2.9
銀幕短評(#726)

「Past Lives」
2023年、アメリカ/韓国。1時間46分、公開中。

総合評価 58点。

イケてないほうのA24映画(イケてるほうは いまコーヒー屋さんで鑑賞中です)。

この映画は つまらないですね。動機も証拠もないのに、そういうふたりが ああいうことに 何回もなるなんて。ちょっと納得がいかないな。共感できないですよ。どう思われますか? そもそも題名が ダイレクトに ものがたっているじゃないですか、はなしの結末を。なんじゃこりゃ ですね。

(Mさんが書かれたように、)遠恋(遠距離恋愛の略ですよね? むかしはエンキョといいましたよ)は、決して ながつづきしない。この命題はいかがですか? おもしろそうなので、下で やや長の「おまけ」に仕立てましょう 。

とはいえ、こんなどうでもいい映画でも いい情景はやはりいくつかあって、いちばんいいシーンは、おんなとおとこがペラペラしゃべっているときに、男がだまってずっと聞いているところ。そのあとに、男とおとこがバーカウンターに並ぶシーン。ああいう いい淀みのシーンは好きですよ。「ラースと、その彼女」とかね。


= = = =

(おまけ)

「遠恋(あるいはエンキョ)について」

まず ここでは わたしのなじみの用語である、「エンキョ」と表記しましょう。

じつは わたしはエンキョの経験がありません(まあ これからするかもしれませんが)。なので、ここに書く仮定や仮説や推論は、なんの根拠もない 単なるでっち上げ、あるいはSFの世界の域をでない夢想です。それでは、

もしじぶんが大学生みたいな年代であったころに戻って、やむに止まれぬ事情で 最愛の彼女とエンキョせざるを得なくなった。つまり仮定法過去のせかいですね。これを想像します。すると ありがちなのは、

エンキョは、双方の物理的な距離が遠い
→会おうとすると、おたがいの移動に時間がかかる
→自ずと、交通のコストがかさむ
→経済的(かつ時間的)な理由で なかなか会えなくなる、会う気をくじく
→いつしか たがいに疎遠になる、興味がうすれる
→やってらんねえなあとブチ切れて、破綻する

こういう構図が、むかしの「エンキョのβ崩壊」の典型的な図式だったのかもしれません。

ではここで、SFのせかいを駆使して、現代の科学技術を タイムスリップで むかしのわたしが活用(文法的な活用は仮定法過去ですよ)できるとしたら?

LINEとかMessengerとかInstagramとか、スマホのアプリ(あるいはPCでの利用)をつかえば、空間の遠近の問題を解決することができます、たとえば音声において 無料で、お風呂のなかからでも話せる。さらにZoomとかTeamsとかMeetを使えば、あいてのすがた形に いつでも接することもできる。つまり、エンキョが キンキョになるのですね、いっしゅの。

むかしJR東海のテレビCMで シンデレラ・エクスプレスというのが流行って、日曜日夜の新幹線最終便で恋人同士がプラットホームで抱き合ってくちづけをして 別れの名残りをおしむ(彼女は東京にのこり、かれは転勤先の大阪にもどる、とか)、そういう風景が ふつうに見られました。それをあおったのが ユーミンのテーマ曲ですよ。つまり、わたしたちには ずっとあのシーンが刷りこまれてきているのですね。ああ、わたしもオレも、ああいうせつない恋愛がしたいなあと。不用意なことにも。

でも そういう刹那(せつな)的な抱擁だけでは足りないのでしょう? 電子画像だけでは テレビを見ているほどの満足度にとどまるのでしょう? 切実な肉欲を満たしたいのでしょう? ヒトは動物なのだから、そんなことはあたりまえですよね。しかし 現実には、たがいが 絶望的な遠方に隔絶されている。これは いかにもやるせないですね。

その状況を よしとしようが 不服と思おうが、時日は刻々と経ちます。いっぽう日常生活では もちろん身近において、いろいろな異性と接する。大学の講義もあれば、サークル活動もあれば、バイト先での出会いもある。そのなかの 彼女らかれらは自分の耳目をつい引くし、向こうがわたしに目を惹いてくれることもある。そうするとおのずと、しだいに口をかわすようになり、たがいを理解するようになり、こころを惹かれあい、からだを重ねるようになる。リアルとバーチャルとが 入れ替わるのですね。これは動物の繁殖本能として きわめて自然な意思決定と行動です。

そういう変化(不可逆的な恋愛の変異)が起きないように、本命である現カノあるいは現カレが、それを阻止することは 残念ながら 技術的にきわめてむずかしい。毎週シンデレラ・エクスプレスで逢瀬しないといけなくなる。すると、本気だ浮気だなどと、意味をなさないコトバをつかう理不尽もおきる。浮気(あるいは不倫というコトバ)の理不尽については、あちこちで書いています。でもわたしは しないので、どこにどう書いたかは よく覚えていません。

手紙の効用
ここでわたしが かれ彼女らに推奨したいのは、手書きのてがみですね。
電子メールだのLINEだの写メだのというありきたりの通信ツールは、あまりもお手軽で たいせつな勝負をかけるのには、粗末にすぎる。そんな幼稚なことは だれにだって(A Iにだって)できるからです。相手への誠意がない。人格が見えない。もちろん愛情もうすい(とみなされる)。

奈良時代 平安時代、つまり1,300年も そのずっとまえからも 知性のある愛情の深い人びとは恋人に手紙を手で書いていましたね。じつに四苦八苦しながら。表面的なところではなく、血のかよった真情を 文字に歌に託して。わたしの妻も 結婚前は すてきな手紙を週に何度も送ってくれていましたよ、激キンキョなのに。たとえば きょうデートで会ったのに、きょう夜に書くなどと。でもそれは もちろんのことながら、とてもうれしいものでした。まごころが伝わるから。

こまったときは あなたの誠意を 手紙にかぎらず どうにかして相手に伝えることですね。考えぬいた じぶんなりの方法で。手書きの手紙については「恋恋風塵」の回で自論を書きました。

まあでも そういう努力をいくらしても、エンキョには やはり宇宙の摂理としての限界がありますね。時限としては、よくもって せいぜい一年というところではないでしょうか(ここは個人的な感想です)。

エンキョの独特の悲恋感は、きっとお互いに つよくてつらいでしょうね。「あなたの名前を呼べたなら」という すてきなインド映画の回で こう書きました。

「思うに、倫理的な枷(かせ)と動物的な愛の欲望とが、相容れなく拮抗するときに、その悲恋度は頂点に向かう。だれも悪くない、互いに深く愛している、しかし抜き差しならない障害がある、踏み越えるべきか忍ぶべきか、長らうべきか思い切るべきか、互いにどんどん分からなくなり 身もだえする。」

と。こうなると 確かに切ないなあ。


えっとそれで、わたしが大学生に戻ったらでしたっけ?

こうしますよ、迷わずに。いまの彼女は 一時のブリッジ(つなぎ)に格下げして(もちろん 相手にはないしょですよ)、あたらしい もっとすてきな女の子を 身近に探しますね。3人くらいの候補者のなかから。そんなこと あたりまえじゃないですか(ここは仮定法過去完了形ね)。

* *

異論のあるかた(とくにエンキョ経験者のかた)は、ぜひ そういうところを教えてください。断腸の苦しみが一か所ではなくて10か所くらいに感ぜられる、とか、不倫(浮気)の奥深さに目覚めてしまった、とか。なるべくなら、ドラマチックなのがいいなあ。


では、お互い すてきな ゴールデンウィークにしたいですね。エンキョにせよ キンキョであれ。
ひろゆき

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