ニューランド

ミュージックのニューランドのレビュー・感想・評価

ミュージック(2023年製作の映画)
4.5
シャーネレクの映画が、ブレッソンや小津さえ越えて、どんどん癖のある?ミニマル化に向かい、殆ど取り留めのない所に向かってる気はする。それは豊かさを意味するのか、先細りに向かってるのか、よくわからない。が、シャーネレクを特別な存在と意識した、ペツォルトやアルスランらとのベルリン派だっけかの特集上映で際立っていた『昼下がり』は、(半隠居)出自都市の、隣接2家族と訪問者·恋人等を絡ませ、人の繋がりや演劇の正体を描いてたと、 10年前を思い返すが、本質の癖と溶け合って解析出来ない、豊かさを自然に感じ続けたと思う。それは、その後の絞り込んで、ミニマルな強度·純度を増した作品でも、奥に昇華仕切れてない何かを感じる。作者は意識してないかも知れないが、その軋轢·濁りが、逆に最も純粋な意志と姿勢を感じる。或いは無に向かってるのかも知れないが、それでも映画の傑作の条件ともされる透明感とは無縁だ。その方向は、近作で意識してる、ブレッソンや小津の普遍へのあからさま向かいの外形より、ドライヤーやレイガダスの危うさの方を感じる。より、細く儚く、透けて見える失われそうな輝きを、柔らかに逆説的に地についたものにしてる、いつしかこちらの世界観とも通じてく確かなくせに未知の世界。
近作は通常の因果関係の説明等二の次と、本質だけを思いつきだけの印象で並べてく。本作など、オイディプスの翻案だと言うが、え?どこが?という気がしないわけでもない。時間が知らない内に10数年、7年と経過していて、成長変化してるキャラもあるようだが、殆ど変移の見られないキャラと併存している。名前·身体的痕跡の呼応や察知も、通常の商業映画では考えられない速度·理解である。息子を捜しだして無条件に近づききる父への、理由のない一体抱擁感と性的·生理的危険反発の同時反射。子まで成した·嘗ての担当患者·現パートナーを、実家に前パートナーの確認を電話の際、その殺害の自首者であり、わが子とも知る、女。両親の自分との接触し直しで、死に至った事を、知るや知らずや、家族かパートナーかを事故で失った現場に立ち尽くす、子持ちの若い女を抱き締める主人公。しかし、その出会いも、喪失や別れと背中合せを、至福の持続の一部として示す。
その半透明な柔らかい層が乗ったような、薄味も得難いトーン。俯瞰め大Lの固定長回しにごく小さい人の動きの感知。山間の大地に白い霧が覆い尽くしていったり、海面のさざ波の細やかさが浜辺に迄伝播してるような。事象は小さく、世界のニュアンスの着実な長さが伝わる。家間の停めた車の手前·周囲の人の動きの長回しフィックスも、別場が入るにしても、不動の何かが密やかにかなりを支配してる。パンや横移動の(左右繰返し)も、運動自体の持続の不変を伝える。自殺を意識しての海面向かいから、脱ぎ捨てたものの岩で隠しにの戻り·再び海へ(実際の自死の流れは、夫子が来ても岩場に隠れてて、崖上に上がっての、眼下に小さく2人を認められる脚の運びの写し長い俯瞰固定カットまで間を置かれるが)。或いは河上を滑る華やかな女たちのボート、そこでも別れの必然が歌われる。カメラの動きは、ゆるやかな死や別れを示してるようで、逆に痣や刻印の手足の捉え、位置や関係を押さえる顔表情や視界の角度·関係を、カットカットで押さえてくると、善し悪しは別に人間の根源の関係性への無意識の踏み込みとなる。主人公がステージて大きく訴えるように歌う姿の情況横移動から、聞く曰くある女らの抜き90°変寄りカット対応は、二つの合体か。
衣類の特定人物の赤やそれに準ずる色の着せかたとその不思議な目立ち方、眼鏡の掛け方の継承や、この作家の元より多い足元のフォロー移動へのある種執着も、この世界を特徴と親近あるものへ向けてく。
ミュージカルと謳われているが、心や身体が弾む要素は全くなく、寧ろ背筋に冷たいものが感じられ、かつ、それが、決して嫌悪を抱くようなものでもなく、観るこちらの観るべき観点を正してくれるような、不思議な歌の被りや謳い上げで、力や快感は全くはたらかない。雨の恵みも、草木に歓びをもたらさない。愛の喜びは一瞬、愛の苦痛は一生。(オイディプスのように目を衝かず、)しっかり、その目で、(全てを)見詰めつづけて。幸せな関係や出会いも、必ず壊れ、別れに至る。等々。しかし、それは悲観論でもなく、世界を受け入れる、感性の実感であり、自然体である。
映画好きとしてはこんなもの、認めてはと自戒が働き続けてた気がするし、新し怖いもの見たさのあり方(が、前作にはあった力ある不意の映画的ポイントなどすらなく、寧ろそのあからさま表現を避けてる本作)からは、実際貴重な共感の静かな連続だった気がする。
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(先入観祓い更に素直な言い方、改めて模索。というか、観てすぐ書き付けた、廃棄するつもりだった、前哨文を折角でもないが、残しとく。付加でもなく、ダブリ繰返しも。)シャーネレクも嘗ては豊かな表現を感じさせる映画、趣味に嵌まったを感じさせる、要は楽しくもある膨らみへ繋がる作品も作っていた。今はどうだ、描写の場と手法を限定し、商業映画の楽しみの物語ばかりか、体感を伝える進行の構造性にも、そんなに拘らない、只寒々しただけの画面。また、動かないのかなと思うと、飾りない僅かのフィットパンから、横へ·それも左右に動く、やはり足元だけ、下半身の追いのもある。身体の部位やその記号性がアップで捉えられる。ある距離と深い通じるものを持ち合う·或いは生じ合うものが、90゜の切返しや対応で切り結ばれもしてく。そして人物らがフレームアウトしても暫しそのままの置きが。人の位置の固定でも。これが商業映画か、そういう枠から落第してるようにも見える。だが、変わらずシャーネレク映画だ、どこかが嬉しい。それはどこでもは味わえないもの。欠落や、寂しさや、渇望だけを、大事な肉体として、取りあげ形象化する事。いや、そこには形さえ残っておらず、意味をなさない歌が被るか歌い上げられるだけだ。作者自自身はミニマルへの操作など、感じてない筈だ。ただ、前に向き合い、関係は感じてるだけだ。素晴らしいとも声を出せない絶対の何か。
冒頭の神話的霧や山奥の不動性に、事故の男や老人による狭い棲み家から、赤ん坊の救出と身体的特徴的からの命名。浜辺や山地の自然空間主体は変わらずも、動的な軽さかが入り込む、遊びと心体解放に興じる現代の若者空間に変わり、先の救急車で運ばれた男が再出し、行動性に欠け離れ残ってたひ弱な青年に、生的か性的にか接近し、暖かさが生まれるかと思いきや、突き放され死に至る。青年は勧んで収監される。そこで、懇意になる、名前が腕に彫られ青年の身体と呼応する看護師と知り合う。2人には娘も生まれ、青年の(育ての)親の家に逗留してた時、ふと予感と確認で関係性を感知した女は、自然と独自に触れあう(この映画の人物らの)慣習の中、投身自殺を選ぶ。血と死者が、直接人為なく、無惨に続く。その後、青年には新たに清新に係わってくる女(。序盤にも深く進まぬが予感共有の開かれた女の存在あり。)も出てくるが、彼女を含め、自然の恩恵と歓びの直接には無縁の、愛の力(或いは無力)の歌を放ってく青年、ら。それ以上の拡がり。
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