みんなはココと呼ぶのだけれども、みんなには自分が決めたルシアと呼んでほしい。
そんな無垢な当然の権利がグサグサと胸に刺さるのは、私が両親側にいるからなわけで。
多様性とは、自分で自分を定義付けできて初めて語られるものである、大人の世界では。
では、まだ定義付けができてない子どもの世界の事象は、大人には多様性として認めることは難しい、自分の子であるならば尚のこと。
ある時、ルシアが行方不明になる。
みな青天の霹靂である。
今頃ルシアと呼んでも遅いのである。
両親は、子どもがいなくなって初めてその事象の深刻さを定義付けできるのである、多様な生として。
では、私ならそうならない為にどうしただろう。
私に子どもがいたら、子どもの名前は子どもに付けてもらおう。
まずはそこから始めよう。
多様性のある両親とその他の大人は、これからますます増えていくはずだから。