まぬままおま

人形たち~Dear Dollsのまぬままおまのネタバレレビュー・内容・結末

人形たち~Dear Dolls(2023年製作の映画)
1.0

このレビューはネタバレを含みます

私は本作の企画タイトルをみてイプセンの『人形の家』を想起した。しかし『人形の家』の含蓄が企画に通底されているわけでも、かといって現代への新規性も全くなく、いやむしろ企画で批判的に考えられる女性の表象の仕方を別の「他者」で再現していて論外だと思った。昨今の邦画には、社会性が皆無であることを残念に思っていて、本作に期待していたからなおさらだった。いや怒っている。フェミニズムや他者研究、社会運動の蓄積を蹂躙するようであるから。

以下、各話ごとにレビューする。また私は男性ジェンダーを自認する者である。そんな私が映画として現れた女性の語りを簒奪することがあってはいけないと思う。でも言わないといけない気がする。私の言葉が多分に加害性をもっていようとも。

西川文恵『JOMON-私のヴィーナス-』
現代の学校の風景も描けないなら、縄文の語りも現れないと思うのは私だけだろうか。確かに木造の校舎をドキュメントすることは意義がある。けれど、そこに人物が登場し、現代の学校生活を生きるなら、昔ながらの学校道具があるだけじゃだめでしょう。そこを過敏に批判的になるのは、制作における限界でそのようになっているのではなく、「田舎の学校は都会に比べて発展していないけど素朴で素晴らしい」という表象をみてとってしまうからだ。それは男にとって都合のいい女性を表象しようとしたことと変わらない。

ちひろは誰なんですか。土偶は誰なんですか。ちひろが土偶をみつけようとしているわけでもなく、土偶がちひろにーしかも偶然のようにー語りかけるから関係がよく分からない。しかもその語りは誰に向けての何なのですか。結局その語りは中性化によって男性性を脱色しようとも身体の女性性を素朴に肯定する男の語りになっていませんか。それは暴力的な語りだと私は思う。情感だけのイメージでは物語は現れない。

大原とき緒監督『Doll Woman』
女性ホームレスと障害者の表象にどれだけ考えを深めたのですか。男性が女性を人形のように可愛がる対象とし、自立/自律性を奪ってきたのが、批判的に考えられる表象だと私は考える。それでは本作で表象される女性ホームレスや障害者とは何か。それは私たち鑑賞者に笑われる対象であって、性的な能動性を描くことで隠蔽したつもりなのだろうけど、自立/自律性を奪った客体としか表象していないのではないですか。
高齢の女性ホームレスは、ホームレスの問題を扱う上で特に捨象されてきた存在だ。ホームレスと言えば仕事を失った男性であって、女性の存在は不可視化されてきた。さらに女性といっても若者と高齢者に二分され、若者は売春などの性犯罪との関係で社会的な注目が高ま
ってきた。そのため高齢の女性ホームレスが最も不可視化され、支援から外れた存在だった。
高齢の女性ホームレスが道ばたで寝ていたら、殺される可能性がある。

その事態は想像されているのですか。人形を飾ってあえて人目につく住処をつくり、無警戒に眠る描写にその繊細さは感じない。しかもハンバーガーのくだりも、性的な描写も何も笑えない。彼女はコメディを構成する記号的表現で、映画の時間に生きてはいない。

しかももう一人の男性のホームレスは耳が聞こえない障害者である。その障害の描き方もひどい。序盤に筆記でのコミュニケーションが可能であることが分かるのに、女性ホームレスは、たどたどしい言葉で彼に語りかけることしかしない。それって馬鹿にしているし、差別で偏見ではありませんか。たどたどしい言葉遣いをしなくても筆記をすればいいし、読唇だってできるはずだ。さらに昨今は『LOVE LIFE』や『ケイコ目を澄ませて』、『Silent』などで障害者の描き方に細心の注意が払われているのに、その蓄積を蹂躙するのですか。

もちろん女性ホームレスや障害者をコメディ的に描くなと言っているわけではない。しかしその笑いが差別や偏見に基づくものであれば、糾弾されるべきだし、そのように描くなら現に存在する彼らの生に差し迫ることが責任としてあると私は思う。

海上ミサコ監督『怒れる人形』
セクハラ・パワハラという言葉だけが宙に舞い、その意味するものが軽く考えられる昨今。本作もそのような言葉の使い方なんだろうけど、セクシュアル・ハラスメントとパワー・ハラスメントは人を殺すんですよ。

もちろんカウボーイの人形にエンパワーされて、自らも「カウガール」になり、ハラッサーを成敗するフィクショナルな表現がいけないともコメディがいけないとも言ってない。ただあまりにも姉の苦しみを軽く扱っていると思うんです。

妹が縄でハラッサーを捕らえて、そこから綱引きが始まる展開に笑ってしまったが、その笑いに不快感を覚えるのもまた事実である。

吉村元希監督『オンナのカタチ ヒトの形をして生まれながらも存在消されしモノの情景』
音声イメージの杜撰さとコラージュの適当さ、劇と記録の混沌にゴダールへのオマージュを掲げるならそれは間違っている。

ゴダールが劇と記録を二分せず、止揚したのは「真実」を映し出すためで、決して物語ることを放棄したわけではない。でも本作は、「日常」劇ーそもそも作劇もされていないーと「クソコラ」というべきオンナのカタチの記録が「芸術風」に編集されているだけである。

「男嫌い」の発言を記録することにはどんな意味があるのでしょうか。女性の表象を批判的に取り上げ、刷新させることとミサンドリーを撒き散らすことは違うでしょ。むしろ同じく関心を持つ男との連帯を放棄させてしまうのではないですか。
そもそもその男は誰なのですか。もちろん監督がかつて男から受けた暴力をなかったことにしたいわけではない。けれど、本作で多くのオンナのカタチを記録したことは、オンナといっても様々なカタチがあることを示し、イメージをリテラルにみれば男女の区別は実は曖昧で、止揚されたヒトと捉えることが可能であることを描いたのではないですか。
「映画にも嫌われている」と監督は言う。それは「cinema」が男性名詞だからではない。映画のカタチをみていないからだ。