ニューランド

愛していると伝えてのニューランドのレビュー・感想・評価

愛していると伝えて(1977年製作の映画)
3.4
✔️🔸『愛してると伝えて』(3.4)  及び🔸『毒薬と老嬢』(3.7)▶️▶️ 

 サイコ(パス)として、病や障害を、科学的社会的に鋭く分析切り出し俎上に上げてく近年の映画からは、下がった位置からそれを健全もやや環境で強調されて、誰でも感性の延長上に持ってる、と危険魅惑的に描いてた、映画的創作上狂気ありきの、嘗ての観点快作ら。50 年80年前の、抵抗なくあり得た作を続けて観る。
 『愛して~』。縦横のフォローから、寄る・主観め・足もと追う移動、二階窓からの俯瞰め主観的通りへの角度と客観地上、またはそこを見上げ捉える別人視界、何気の出逢い・すれ違い近さとそこに好意の現れの面、タイトな硝子越し車中やデスク仕事捉えと広くスクエアな全体図押さえ、切返しやどんでん・90゜変切替えの端正さとスマートさ、当初甘い音楽と相まって人は容易に距離もサイズも容易にカメラ近く迄、色彩もスッキリモノめに押さえ様々なニュアンスのその切替えはあるべき節度を感じさせ、当時ユペールと並ぶ人気若手女優だったミウミウと・後の姿はまだ想像も出来ない隙のないビジュアルのドパルデューのタイムトリップ清新感(が真の共感を感じるはドワイヨン最高作らの伝説の女優の痛ましさ)。稀に見る夾雑物なし切り分け・映画観だけへ伸びてくと見てく。
 が、主人公は、少年時代からずっと当然の文字通り夢の世界だけに生き、現実の軋轢や相手の痛みをすっ飛ばした行動に疑問も持たぬ、精神的にも性的にも成熟成長していない、潔癖を超えて精神の異常を抱えた面が、作劇のミステリーを越えて見えてくる。ずっと結婚を約してた幼馴染みが2年の空白の間に別の男と一緒になってたことに、その二人に各々当たり前に、復縁か底流では変わらなさ、離婚解放、を迫る。山間部に手作りの新居もつくり、結婚リハもひとり週末毎に。「狂ってる」と呆れられるも、自分を疑うをせず、行動は電話から直接性に移す。それに動揺した夫は車で事故死まで導かれる。それでも当の相手は全くなびかず他の男と再婚へ。主人公のミステリアスさ、一徹観に惹かれた、越してきた住居も仕事場も近い別の女が彼へのストーカー的行為を増して行き、日常親近形成から性的関係まで持っていこうとする。身体は揺らぐが心は変わらず二人との距離感の違和に各々、新居で性行為不全延長暴力と炎上、プール衆人注目無理矢理結婚式もどき、の中で死に至らす主人公。
 終盤の一気シュール切り裂き・張り詰め、行為と場の立体力・運動とカラフル広がり張り出し構築が、映画的にはデ・パルマ的に素晴らしい。只、それ以前から日本人の視点からは慎ましさや内的厳かさの欠片もなく、厳かさも欠き、内的葛藤の真の魔力は映画的狂気に代わられ、共感度は下がってるので、お好きに、とでも言った感じではある。日本映画やTVドラマのこの手の傑作の内向レベルと各種バランスはこんなものではないだろう。映画としては見事もそれ止まり、所詮言われる程たいした作家ではない。悪くはないが。
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 『毒薬~』。ヒット舞台劇の映画化の『愛して~』より30年前の作は、キャプラ監督作。映画を見始めた頃、唯一TVに掛かってたキャプラ映画はこの『毒薬~』位しかなかったので、後に民主主義とヒューマニズムの本領作を見た時、戸惑ったものだ。これは『愛して~』以上に、精神が自立できてない、特殊な環境の青年を扱ってる。個々の構図や、カメラ移動、突飛人物行動ら、各々に突き抜けんとする見事な力はあるが、キャプラのカットの組合せは盤石と言いがたい過不足を抱えた所があり、何より都度都度の状況の現実立位置を捉えてく。映画的デクパージュ昇華よりも、理想や希望の追求の可能性をさぐる。
 主人公はいっぱしの物書きなのだが、予てより近しかった神父の娘との結婚がマスコミに嗅ぎ付けられるを異常に恐れてる。それは強烈な個性の家族親族の中で育った事からの、目立つ事への憚りで、没個性のでしゃばらなさで生きてきた、何でもおおっぴらにする社会の標準模範ライフスタイルへの反撥自著での宣言の為でもある。しかし、存命の叔母らへの結婚の挨拶へ行き、そこでお世話になってる・自らを大統領生れ変わりと狂信破天荒予言の兄、更にその上の兄が凶暴凶悪で姿消していたのが整形医師を連れて声だけしか面影ない姿で戻ってくる、のに遭遇。更にその前後、屋敷地下は10を越える遺体処理の墓地となっており、叔母姉妹が安楽死の信念で老い先不安な老人らを毒殺したものの列と分かる、最大ショック露見。元より懇意の警官が出入りし、その上に脱獄囚を探し別の警官らもはいってくる。新婦も来て私設墓地を発見したりして、主人公は家族の犯罪隠しにアタフタ・ハラハラ奔走する羽目に、当人らは平然としてる中。脱獄囚は連れの医師を名乗る男とわかってから、すべての隠蔽は無駄になり、親族らはしかるべき施設・療養所に収容されてく。しかし、自分は孤児からの養子で、狂気の血筋には繋がらぬと叔母に別れ際に伝えられ、解放され誰よりも突拍子ない快哉を叫ぶ主人公の、純たる狂気感。血(筋)と家族史の重み束縛と、それとは離れた人間の本来の姿の狂気帯同の表し、の描き込み。キャプラの名作はやはりアカデミー賞を争う社会の不正と闘う民主主義体現の個人、ものより、やはり流れで本作と繋がる、『~支那』『~地平線』かな、個人的には。
 秩序や常識への怯えと、大事を呼ばぬ先回り立回りのせせこましい可笑しさから解放されると、出てきたのは大事の中身の狂気体現そのもの。こってり見事・魅惑的なミレールよりは一枚上作。反映画の充実作で映画的!といった褒め言葉は、実はカラッポ位の事でしかないのかもしれない。
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