YAJ

プーチンより愛を込めてのYAJのネタバレレビュー・内容・結末

プーチンより愛を込めて(2018年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

【ドキュメントという名のフィクション】

 面白い作品ではある。プーチンがいかにして権力を握り、現在の統治国家を築きあげたのかを浮かび上がらせていく。プーチンの素顔をとらえた2018年製作のドキュメンタリー(と、作品解説)。

 2018年製作だが、使われたフィルムは1999-2001年に撮影されたもの。もはや懐かしさが漂う20年以上前の映像だ。プーチンがいかにして権力を握ったか、確かにその端緒は描かれているが、現在の統治国家像は描かれていない。そこは、監督自身のナレーションが補っているという体裁となる。

 監督のヴィタリー・マンスキー(59)は、ソ連時代に現ウクライナに生れ、今は反ロシアを鮮明にしている国家ラトビアに暮らす。彼の作品は『太陽の下でー真実の北朝鮮』(2015)を以前観ている。
 これもなかなか作為に満ちた作品で、ドキュメンタリーではあるが、淡々と北朝鮮のありのままを撮影したのではなく、その撮影を通じて(要は当局からの邪魔が入る等)北朝鮮の体制、その下で暮らす国民の姿を見せることで表現しようとしたものだった。なかなかトリッキーで、撮られた側としては愚弄されたかのような思いが残っただろう。

 今作も、20年以上前の映像を使って、いかに反プーチンを演出するか?できるのか?が焦点ではないかと思う。お芝居したものではなく実際の映像ではあるが、それに意味を持たせるのは製作者の匙加減だ。

 映画監督の想田和弘は、ドキュメンタリー制作について
「普通はリサーチが大事だよ、プランが大事だよとドキュメンタリー制作の授業では教わるからです。世界のドキュメンタリーの9割以上はリサーチをたくさんして、それに基づいて撮られている。」
と語り、なにより最初の企画あり、台本ありきの撮影だと言う。かつて自分が企画書通りに撮影してこなかった映像を全てボツにされたということも語っている(@『いま、映画をつくるということ』)。

 要は、ドキュメンタリーといえども、最初に筋書きあり、なのだ(故に彼は、その考えに反発し、台本のないドキュメンタリー、ハプニング上等と、そのままの映像作品を「観察映画」として制作している)。
 ヴィタリー・マンスキーは、20年前、プーチンが権力を握ることを看過した、大統領選挙で賛成票を投じた自分を含む国民に責があるとして本作を制作したという。

「黙って同意して犯罪の目撃者になったすべてのロシア国民の個人的責任も、集団的責任の認識もあったからこそ、制作した」と語っている(映画パンフより)。

 ゆえに、そうした慙愧の念をナレーションに込めて映像に重ねるが、エリツィンを篭絡し、自身の能力、人格の全てを賭けて混乱した90年代のロシアを建て直そうという熱意に満ちた若き指導者の姿は、観る者にどのように映るだろうか?

 バイアスのかかっていない視点から見れる人の意見を聞いてみたいものだ。



(ネタバレ含む)



 本作は唯一エリツィンの物語として見ると、実に感傷的で、哀惜の念に駆られて観ることができる。そこだけは真実(っぽい)。

 自分が推した人物が、一瞬のうちの自分を凌駕して、己が成しえなかった国家繁栄の道へ邁進していく後継者の姿を目の当たりにして、どう感じるのか。その変化は残酷なまでに克明な映像として残されていて貴重だ。
 自分の意に反し、ソ連時代への復古を匂わせる後継者のことを忸怩たる思いで語るシーンが印象的だった。

 とはいえ、だからと言ってプーチンがひたすら「悪」には見えなかったんだけど、私の目もたぶんにバイアスがかかっているとは思っている。 
 そんな映像に無理くり監督の言葉で反プーチンを煽ってもどうかと思うし、字幕も結構、いい加減な気がしてならない。

 本編にもある映像だが、予告編の45秒あたりに、プーチンのことを「赤」だと吐き捨てるエリツィンが写る。赤、要は共産主義者という意味だが、коммунист(コミュニスト)とは言ってなかったと思う。кощунник(冒涜者)のほうが近くないか? 批判した言葉ではあるが、字幕の出し方で意味合いがまた違ってくる(冒頭の作品公式HPのリンクから予告編が見れます。ご参照)。

 被せたナレーションに加え、字幕の書きようで、これまたどうにでも観る者をミスリードすることが出来ると感じた。フェイクとまでは言わないが、ドキュメントとはいえ、それも製作者の意図を反映したフィクションだという思いを新たにする作品だ。

 台本ありきで撮影したのではなく、過去の映像で作り上げたこの作品を、破綻してないと思って、果たして観れるだろうか?
YAJ

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