イスケ

恋人のいる時間のイスケのネタバレレビュー・内容・結末

恋人のいる時間(1964年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

笑い声のレコードの中に入りたい。
何があったらあんなに笑えるの。

そして、鏡と向かいあって乳首までの距離を一生懸命に測るシャルロットと子供の歌声に紛れる

「ネギを買ってきてください」

が、異様にツボった。
相変わらず、ゴダールは真顔で笑わせにくるんだよな。


ヌーヴェル・ヴァーグ期の作品ではあるものの、既に共産主義の芽がありますよね。

彼が商業主義を嫌いなのは、本当に語るべきことを隠してしまうことだからという側面があるんだろう。
本作で言えば、アウシュビッツやホロコーストの話題とかね。

良くも悪くも昔は他人の事まで語ったり口出ししたりする社会だったわけで、それが世の中への関心へと結びついていたわけだけど、
大量消費社会で自分を飾るためにモノを購入していくようになり、個人主義化はどんどん進んでいった。

しかもそれは洗脳と言い換えて差し支えないマーケティングによって画一化もされている。

「脇毛伸ばせよ。
 刺激がない。」

という恋人の何気ない言葉も、ただの性癖というわけではなく、
シャルロットが読んでいる雑誌などからの影響で大量生産されている「イケてる女」による弊害が生んだ言葉でしょうから。

「すべての女性が知らねばならぬこと」なんて、雑誌が分かるわけない。
その女性が付き合ってる男は一人一人が違う人間なんだから。

今の時代だったら簡単に豊胸手術に手を出すだろうなぁ、シャルロット。

独り言のように無表情な声でよく分からない言葉を並べたてるシークエンスは、
消費社会の洗脳による頭の中の声かなと思ったけど違う?


最後の演技論のパートで語られていた、

「その人物を頭に描き、作り出そうとする。
自分自身の感情や思想を離れて演じる。」

という言葉。
なんとなくだけど、消費社会に飲まれていては、演技をするまでもなく、マーケティングやTVの洗脳によって別人になってしまうよ、という意味合いも込められてる気がした。

平成・令和には「自分探し」なんて言葉がある。
100年前の世界にそんな概念は無かっただろう。


シャルロットが「現在」を生きていることだけは非常に分かりやすくて、それが悪い事であるかのような印象も受けたが、そうではないと思う。

彼女の場合は、過去から学ぶこともなく、未来を想像することもない。
思考を疎かにしていたことが問題だったんじゃないかな。

誰の子か分からない子供を授かった時、
誰の子(過去)を授かって、どっちに付いていけば幸せになるのだろう(未来)というように、点から線で物事を考える体験ができたのかもしれないね。


それにしても、枕詞のように、

「●●をずっと見ていられる」

という感想が出てきがちなゴダール作品はズルいなぁと思い始めてきた。
アンナ・カリーナしかり、ミリアム・ルーセルしかり、ブリジット・バルドーしかり、本作のマーシャ・メリルしかり。

彼女たちが漏れなく魅力的だから、退屈な物語に身を預け、哲学が右から左に流れていくのを、必死に防ぐことができる。


「知性とは断定する前に理解すること。
 考えを極めようとすること。
 限界や対立点を探す。
 つまりは他者の理解だ。」

これ、超好き!!
イスケ

イスケ