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ニューヨークの中国女の河のネタバレレビュー・内容・結末

ニューヨークの中国女(1968年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

『中国女』公開後、ペネベイカー社の主催で行われた、アメリカで映画を学んでいる学生や先生達とゴダールの質疑応答。原題である『Two American Audiences』は『1AM (One American Movie)』と対応している。

曖昧な記憶でのメモ

- (現実の反映としての映画を作っていくのか、こうあるべきという世界を描いた映画を作っていくのかという質問に対して)作品は静的なものではない。静止画である写真を見る時も、見る人と写真との間の movement が存在している。だから、作品は現実であり何かの反映でもある。加えて、映画とは movement であるために作品内にも movement が存在している。

- (素人役者を使わないのかという質問に対して) 俳優を尊敬している。彼らは指示した通りに動いてくれるから。自分は「これがセリフです」と言われても従うことができない

- (『中国女』の主人公達がプロレタリアではなくブルジョワであると批判されたことに関して) 彼らはブルジョワでも農民でもなく俳優

- 『中国女』最後の「classが再開する」という台詞はclass (階級闘争)と class (授業) のダブルミーニングとなっていて、大学での勉強を続けて、階級闘争に備えるという意味となっている

- 『中国女』で引用される社会主義国の指導者達の写真は、どれも若い時代のものを使っている。それはこの映画が若い人々(=若い国々=ベトナムなど発展途上であり革命の近い国々)についての映画であるから。

- 国それぞれに革命の形がある。例えばフランスでは革命が暴力であることに意味がない。爆破するとしても人ができるだけいないところでやるべき。逆に暴力が不可欠な革命の形もある。『中国女』の主人公はテロを実行する時にまだ若く、そのことに気づいていない。

- 『中国女』クライマックスでの殺人は観念的なもの。だから殺人現場は映されない。

- 闘士になるためには勉強が必要。学生達に一つメッセージを伝えられるとすれば「勉強しろ」ということ。闘士になろうとしてなるのではなく、勉強した結果闘士になる。自分が闘士になれていないと思うなら、それは勉強が充分でない。

- フランスのような平和な国で暮らす人々がやらなくてはいけないことは思考すること。そしてその思考を戦闘の中にある人々に手渡すこと。

- 自分にとってそれは真の映画を作ること。真の映画を作り、その方法をベトナムなどの国々の映画監督に手渡す。国ごとに違う革命の形があることと同様に、真の映画もまた国によって形を変える。(真の映画と革命がゴダールの中で紐づいている)

- 自分は普通の映画を作っている(=映画史的に必然的な方法で映画を作っている)。それは映画史を学べばわかること。エイゼンシュテインは『イントレランス』を模倣して映画を作った。チャップリンやムルナウなどの作品は映画史を踏まえているという点で普通であり、同時にどれも特殊でもある。それは映画作り以外の思考において特殊であるから。今のハリウッド的な映画作家は自然に映画を作るということを忘れてしまっている(=映画史から切断されてしまっている、個人の感覚から映画を作ることができなくなっている)。
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