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旅するローマ教皇のakiakaneのレビュー・感想・評価

旅するローマ教皇(2022年製作の映画)
3.1
約800時間ものアーカイブ映像をもとに作成されたという本作中、フランシスコ・ローマ教皇は広場で、議会で、ラジオ番組で、ハリケーン被災地で、ヒロシマで、難民キャンプで、ときに受刑者たちの手を握りながら世界中で連帯と平和を呼びかけ続ける。彼の生きている間はおろか、その後何十年、何百年をかけても実現されないだろう「夢」であっても語り続ける。
そんな彼の夢を語る姿勢は「我々が幸せになれないのはこいつらのせいだ」と「異物」を指弾する為政者や「カリスマ」たちとは対をなす。
作中では触れられていないが、2015年の米国訪問の前日に、防弾ガラス張りの専用車から人々に手を振る教皇に、厳重なセキュリティをすり抜けてソフィーという5歳の女の子が駆け寄るというハプニングが起きている。教皇はソフィーを手招きして祝福を与え、その際彼女が教皇に渡した手紙に「私の両親を合法滞在者にしてもらえるよう、大統領と議会にお願いしてください」とスペイン語で書かれていたという。
翌日、教皇は連邦議会で移民の受け入れや移民差別をなくすことが真のグローバリゼーションである、という熱心な移民擁護者としての自身の意見を述べているが、アルゼンチン生まれの彼はイタリア系移民の親を持ち、実はソフィーと同じ「移民の子」という生い立ちだ。(参考:https://eikaiwa.dmm.com/blog/culture-and-community/world-topics/pope/)
自分の言葉が文字通り全世界に影響を与えることを自覚しているからこそ語り続ける意義と同時に、計り知れない重圧もあるだろう。何十人もの司教による未成年への性的虐待及び、バロス司教による性的虐待の隠蔽を問い質す声に「証拠」という言葉を使ったことで被害者を傷つけたこと、寄宿学校による先住民アボリジニに対する同化政策(2019,カナダ)を公の場に立ち謝罪する姿は、昨今の謝ったら死ぬor誤解を与えたら謝る(謝ってない)政治家たちに爪の垢を煎じて飲んでもらいたいほど真摯だ。

さて、ここから批判である。確かに本作を見れば上記のように
『世界各国へ足を運び、笑顔で手を振るだけでなく、市井の人々と触れ合い、握手をし、直接話を聞く。そして、夢見ることの大切さを伝える。垣間見える明るく飾らない人間性。様々な世界の問題に耳を傾け、言葉を投げかける教皇フランシスコ。本作を通して私たちは彼と共に旅をする。この教皇の旅は、現在の社会情勢を映し出し、私たちの心をゆさぶる。
(本作公式サイトイントロダクションより一部抜粋)』
のだが、これでは教皇を「善」の象徴として使った露骨なキリスト教のイメージアッププロモーションである。(公式サイトのタイトル下に「カトリック中央協議会広報推薦」の文字がある)
人の手が加わったひとつの作品な時点で「自然な」ドキュメンタリー映画などあり得ないが、あまりにも「良いところ」ばかり抽出し過ぎて不自然なのだ。終始世界中から愛され尊敬される善人として描き続け、終盤で世を憂いながら体調が思わしくない様子を出す展開には、人気アイドルに余命間もない闘病者を演じさせる24時間テレビ的な安っぽさを想起してしまう。
また、彼が人工妊娠中絶に対して「私たちには人の命をその成長段階の全てにおいて守り、擁護する責任がある。それが黄金律です。(2015年,米国連邦議会)」、「殺し屋を雇って問題を解決すること(2018年,バチカン)」と述べて反対したという意見が分かれる発言や、2022年に結婚している人は子どもを持つことを、子どもに恵まれない人は養子縁組を考えるよう訴え、子どもを持たずに代わりにペットを飼うのは身勝手だと発言して批判を受けた都合の悪いことについては触れられない。
キリスト、イスラム、伝統宗教の猊下たちが宗教の違いを越えて集う「歴史的」で「感動的」な司教会はおろか中央アフリカ共和国で教皇を囲み話を聞く人が男性しかいなかった点も含めて、教皇の語る「夢」の中に生きた女性が存在するのか、制作陣に良い点も悪い点も触れた上でそれでも応援したくなる見せ方に編集する手腕がなかったのか、甚だ疑問であった。


《余談》スピーチ抜粋
「(難民船の転覆死亡事故を受けて)この地に赴き祈らねばと思った。何人の人が彼らのことを泣いたでしょうか。無関心のグローバル化が泣くという力を奪ったのです。(2013,イタリア/ランペデューサ島)」
「大切なのは夢を見ること。あなたが変える世界を夢見ましょう。あなたがベストを尽くせば別の世界になるかもしれない。(2013,キューバ)」
「リンカーン大統領のように自由を守るとき、マーティン・ルーサー・キングのように、人々がすべての兄弟、姉妹の完全な権利を”夢見"られる環境を育むとき、ドロシー・デイのように虐げられた者の正義と大儀のために不断の戦いを挑むとき、トマス・マートンのように信仰が対話を重ね和平を広げる姿勢だと示すとき、その国が偉大だと言えるのです。
自問すべきです。なぜ兵器が売られるのか。それは悲しいことに金の為です。その金は血に染まっている。武器の売買はやめましょう。(2015,ローマ法王として初の連邦議会演説/アメリカ」
「社会の決めつけと闘わねばなりません。『どうせ同じさ地獄で会うのさ(※タンゴの歌詞)』、同じじゃありませんよね(2018,チリ)」
「キリスト、イスラム、伝統宗教は平和に共存してきた。宗教や神の名を借りた戦いをやめるべきです。神は平和なり。神はサラームなり。(2015,中央アフリカ共和国)」
「治安と秩序でしか社会を守れないというのは欺瞞です。人間を使い捨てにする社会の犠牲者を増やさないために働かなくてはなりません(2016,メキシコ)」
「病んだこの世界で自分はいつまでも健康だと信じながら全速力で進む…。(2020,バチカン)」
(字幕翻訳:鈴木昭裕)
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