シシオリシンシ

窓ぎわのトットちゃんのシシオリシンシのレビュー・感想・評価

窓ぎわのトットちゃん(2023年製作の映画)
4.6
私的2023年公開映画のダークホース作品。見ている間は生き生きとしたアニメーション表現に多幸感を感じ、観賞後は心に重く響く共鳴を残す、紛れもない傑作アニメーション映画である。

物語前半は戦時下でもまだ人々がおおらかだった昭和の時代、風変わりで落ち着きの無い少女・トットちゃんの目線で市井の人々の日常が流れていき、その何気ない日常が彼女のフィルターを通して華やかに爛々と描かれていく。
子供たちの個性や自主性を否定しない校風の学校・トモエ學園を主な舞台とし、學園生活のささやかでけれど愛おしい平和な日々が小さなドラマをいくつもいくつも重ねることで紡がれていく。

ここで驚嘆すべきはトットちゃんたちの日常や感情の導線がほぼ全てアニメーションの力で語られていることにある。
段取りじみた説明台詞を使わず、表情や佇まい、時に後ろ姿や影で登場人物のその時の感情を表現している。
それは百の説明よりも遥かに雄弁で、スクリーンから溢れる物言わぬ感情を、観客がちゃんと心で理解できるように出来ている。これは優れた表現法を適切に行使しなければ出来ない素晴らしい芸当である。

本作のアニメーションにおいて最も白眉なシーンは、トットちゃんの親友の泰明ちゃんが初めてプールに入ったときに描かれた幻想のシーンだ。
小児麻痺で思うように体を動かせなかった泰明ちゃんが水中で重力から解き放たれ、自分の体じゃないみたいに体が軽くなり自由に動けたときの感情の喜びを実にイマジネイティブな手書き作画で表現している。
こういう心の具象化こそアニメーションにしか表現できない素晴らしき技巧であり、作り手がアニメーションの力を信じ、また観客の感受性を信頼しているからこそ到達できる表現の高みなのだ。

トットちゃんの日常のショートショートを積み重ねていく物語構成だが、主たる筋はトットちゃんと泰明ちゃんとの交流の場面の数々だろう。
天真爛漫で未知のモノへの探求を恐れないトットちゃんに感化されて、小児麻痺で活発に遊ぶことを諦めていた泰明ちゃんがトットちゃんと一緒に彼にとっての未知なるモノに出会うお話である。
体が自由に動かないなかで、決死の思いで臨んだ木登りは、泰明ちゃんにとって人生最大の冒険であり、自由で眩しかったトットちゃんの居場所に初めて行くことができた瞬間だ。
そんなごくミクロなドラマをなんと愛おしく描くのだろうこの作品は。幼き人の憧憬の美しさが胸に迫って、すでに涙ぐんでいる自分がいた。

そんな眩しく煌めいていた日常は、次第に迫る戦争の足音で陰りを帯びていく。

物語後半は後ろ暗い戦争の影がひたひたと市井の人々の日常を侵食し、きらびやかだった世界の色がくすんでいく様子がさりげないリアリティを持ってアニメで語られている。
その影響は子供たちの自由と自主性の園・トモエ學園にも影を落とし、楽しかったはずの日々が貧困と自粛を強いる周囲によって奪われていく様子は見ていてなんとも辛いものだった。

トットちゃんと泰明ちゃんがお弁当の時間に歌っていた楽しい食事の歌さえも、通りすがりの大人に「卑しい歌を歌うな」と叱責され、楽しい思い出さえも理不尽に奪われそうになる。
その理不尽に泣きじゃくるトットちゃんを前に、泰明ちゃんは声ではなく水溜まりを踏む足音で歌った。不自由な足で、たどたどしくも一音一音を奏でる。その音楽は今ここで二人にしか通じない秘密の音。そうして二人は雨音にリズムをのせて足音で歌い、灰色だった町がきらびやかな幻想に包まれる。まるで平和で華やかだった日々が帰ってきたかのように、トットちゃんと泰明ちゃんの目にはこの瞬間の世界は輝いていたのだ。

そんなわずかな煌めきも、現実という理不尽の前に押し流されていく。
ある人との突然の別れ、そのことへの行き場の無い思いがトットちゃんを疾走させ、ぐしゃぐしゃになった感情で町を走り、これまで見てこなかった現実を認知していく。若人を戦地へ送り出す民衆、生々しい戦争ごっこをする少年たち、片足の無い帰還兵、遺骨を抱いて虚ろな悲しみをたたえる女性。大事な人の喪失は同時にトットちゃんを子供から卒業させる残酷な通過儀礼でもある。この重く胸に迫る彼女の疾走はアニメーションとして素晴らしければ素晴らしいほど残酷さを増していく地獄のようなシーンで、彼女の輝いていた心をこれ以上奪わないで!と懇願したくなるほど心揺さぶられた場面だった。
學園最後の日、散り散りに別れた学友、疎開、思い出の我が家が一瞬で崩れる様、さまざまな現実がトットちゃんから大事なものを奪っていった。
それでも彼女は純真さを捨てずに彼女であり続けた。
「トモエ學園の先生になってあげる」
はみだしものの自分を「良い子」と言ってくれた校長先生にそう約束した。
青森へ向かう電車の窓辺で見えたチンドン屋の姿。
それは夢かうつつか定かではない。けれど彼女は腕に抱えた赤子の妹に「良い子ね」と手を重ねて囁いた。かつて校長先生が自分にそう言ってくれたときのように。
トットちゃんはまた新たな窓ぎわで彼女の日常を生きていくのだろう。

トットちゃんが去った後の東京で件の大空襲が起こり、トモエ學園はその戦火に焼かれた。電車を使った楽しい教室も、みんなでお弁当の歌を歌った講堂も、トットちゃんと泰明ちゃんが登った思い出の木も、無常なる火に焼かれ尽くした。
その燃える校舎を前にした校長先生はしかし絶望をおもてに出さず「今度はどんな学校を作ろうか…」と不屈の決意を新たにした。校舎を燃やす炎がスクリーンに暗転しても校長先生の眼差しの灯は消えていない。教育者としての矜持がこのシーンに強く鮮明に現れていた。
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