ハル

ぼくたちの哲学教室のハルのレビュー・感想・評価

ぼくたちの哲学教室(2021年製作の映画)
3.9
今の自分は、生徒から先生の視点に変わるちょうど過渡期な気がしていて。そんな今観れたことがとても嬉しかった。

アイルランドのことを知らなかったので、てっきり哲学が一般的に教育に含まれてる北欧的な国なのかと勝手に思っていた。実際はロンドン塔の時代の対立が今も色濃く残る、フェンスと鉄条網が印象的な町。
分断が今なお続いているその町で哲学的対話を実践すること、それは何重にも難しく意味のあることに思える。

北欧がよぎったのは、この前読んだ本でスウェーデンの「感情教育」が出てきたから。自分がいま快なのか不快なのか、何にもやもやしているのか、大人になった今でも分からないことがある。だから幼い頃から自分の感情を言語化できるようになる環境は正直羨ましい。
学校の先生だって親だって、怒りに私怨(勝手に不安になったり、蔑ろにされたと怒ったり)が含まれていると感じたことは多々あるもの。

一方で感情を言葉で説明しようとするのは西洋哲学的だ、と少しの反発を感じる自分もいた。特に学校では先生は権力を持っていて、先生が「これができたのが"良かった"よ」とフィードバックするのは介入が強いのでは、と。
でも教育という現場においては、それが先生の役割なのかな。生徒が先生の思いを内面化しない、別の人間としての自他境界がはっきりした関係があってこそなのかも。なにせ体験したことがないから分からない。

自分の小学生の時のことを思い返すと、こんなにも先生のことを信頼して感情を言葉にできていただろうか、と。小6の頃、私はたぶん先生のことを舐めていて、同時に怖い存在でもあった。怒られる時の圧倒的な非対称性が、自分の考えを先生に説明することを諦めさせていたと思う。学校では「正論」でしか会話できないと思っていて、自分の意思とは違っても正論を組み立てるのが得意だったから、それで学校を生き抜いた。だんだん大人になって先生の目線もわかるようになって、今思えば先生と個々の人間として話すことはできたんじゃないかな、と思うけれど。でもホーリークロスの先生方みたいに、個々の人間としての側面と指導者としての側面を併せ持つのはすごく難しいことなんじゃないかなと感じる。
自分の感情を開示しているのに、それを正か誤かでジャッジされたら、本音で話せなくなってしまうと思うから。

喧嘩の時に先生が詳細を聞かず泣いた子と泣かせた子を会わせて互いにごめんなさいさせて、それで解決とされていたことを不満に思う子だった。それで「先生の介入なしに喧嘩を解決しよう」プロジェクトを(先生の助けを借りて)スタートさせ、仲介役を買って出たりもした。だけど結局は権力を持つ先生の威を借る狐、優等生としてただ「裁いた」だけだったんだよな。あのとき対等な立場で対話する方法を知っていたら...と思う。


すごく不機嫌で、自分がなぜ不機嫌かもわかっていない子が、対話の中で徐々に自分を開いていき、最後には顔が綻ぶ場面...! そんなことがあり得るんだ。対話の力を感じた。

・感情をコントロールする、という発想があまり好きじゃない。感情との付き合い方を知る、とか感情に対処する、とかでありたい。

・たぶん同じ理由で、校長がジムでトレーニングする時に貼ってある言葉に自己啓発感を感じて苦手だった。彼はどんな意図であれを貼ったんだろう。
ハル

ハル