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ナショナル・シアター・ライブ「善き人」のumisodachiのレビュー・感想・評価

5.0


2008年に映画化もされたC・P・テイラーによる舞台作品。演出はドミニク・クック。

1930年代ドイツ。安楽死に関する論文を書いたことでナチス政権に気に入られた大学教授(文学部)のジョンは、気が進まないながらもナチスに入党して重宝されるようになっていく。ユダヤ人の親友はナチスに危機感を抱き、実母は痴呆が進んでいる。夫婦仲は悪くないものの、大学の生徒と不倫関係に陥り……。

たった3人だけで演じられるというミニマムな演出と、コンクリートの寒々しいセット。ジョン以外の登場人物は2人の役者が担うのだが、キャラクターの切り替えのスピードがものすごく早い。リアリティを追求するのではなく、あくまでもジョンの主観で物語を展開させようという強い意志を感じた。

冒頭、ジョンは「感情が動く局面になると頭のなかで勝手に音楽が鳴る」という悩みを打ち明ける。劇中に流れる劇伴は注釈がない限りはすべてジョンの脳内のものであり、交わされる会話はすべてジョンのフィルターを通して描かれているという印象。これが、特に2幕における深刻さを徹底的に強調している。

「ユダヤ人にとっての危機が迫っている」と親友がいくら訴えても、正常化バイアスによって「そんな異常なことは起こるわけがない」と否定し続けるジョン。愛人と暮らすために家族を捨てるのに、妻には「毎日会いに来るよ」と上っ面の言葉を言ってしまうジョン。実母を慮っている風で、結局は妻に丸投げして見捨てるジョン(しかも安楽死についての論文まで書いている)。

一見すると常識的で紳士で、なにひとつ悪い言動はないジョンが、周囲の変化と共にいかに残酷さを帯びてくるのかを、克明に描く、恐ろしく解像度の高い芝居だった。この作品を見て、自分自身を顧みない人間はいないだろう。「そんなこと起こるわけない」と何の行動も起こさず、何か失敗しても「でも、仕方がなかったんだ」と言い訳を見つけて自分を納得させる。それこそが、大部分の人間というものだと我々は知っているからだ。

2幕に入ってからは恐ろしくてちょっと震えが来るほどだったし、愛人がジョンを抱きしめながら「私たちは善い人だ」と言った瞬間には恐怖で身がすくんだ。こんなにも醜悪なのに、私が彼らのようにならないという保証はどこにもない。いや、それどころか当事者にならないかぎり、かなりの確率で私も「私はたちは善い人だから」と思うだろう。それを認めるのが苦しくて、息を吸うことも忘れそうになってしまった。

最後、脳内で響いていたと思ってた音楽が目の前で演奏されていると判明するシーンのショックたるや。詭弁や理想論で目を逸らし、自分の心に沸き起こる罪悪感を無視してきたジョンの前に、圧倒的な現実が立ちはだかる鮮烈な幕切れ。現実は脳内で自由に組み立てられる理想郷や物語ではないのだ。

人類すべてが観ないといけない芝居だと思う。大傑作。

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