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首のdemioのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
3.5
冒頭いくつかのゴア描写(観客の眠気を早期に露払いしておく気遣い)がありつつ、画面に対しては、陽の光が画面の奥底まで貫いて、明瞭に木々の緑がはえる後期の黒澤明や勅使河原宏が撮った時代劇の質感を感受する。ないし、言ってしまえば80年代東宝の大作時代劇によくある質感なのだが、70代を迎えて巨匠と呼ばれるようになった映画監督が、パトロン同然の物好きなスポンサーに湯水のごとき予算を注ぎ込まれると生じるバブル時代劇の質感にたけしも片足突っ込んだのかと思いながら見始めると、実際は多少そういう予兆と異なることに気づく。
30分ほど見ると、ああ、信長・光秀・秀吉たちを『仁義なき戦い』で調理したのか、戦国時代を"史的唯物論的"に捉え直した「実録モノ」時代劇なのか、と気づく。すなわち、たけしの師の深作欣二であり、時代劇に舞台を変えたアウトレイジがある。ある意味一貫している。
この映画がおもしろかった理由も、つまらなかった理由も、たけしの作劇の明晰さ、論理的な構造のわかりやすさにある。『仁義なき戦い』とは、つまり暴力の経済性をえがくことにある。ヤクザが行う暴力は、その法人の利潤追求のための商材である(製造業におけるネジのように)。そこでの暴力に、暴力が本来持つ無根拠性はなく、すべて明瞭な経済的利潤の論理が通底している。同様に、『首』で終始えがかれる主君・家臣の関係美学を体系づける「武士道」も、本質的には「美学によってその経済性を隠蔽する経済原理」の一つに過ぎない。
信長と蘭丸、明智光秀と荒木村重のように、主君や同胞に対する「お慕い申す」の約束と肛門姦ーーそれら二つを総称した"契り"により、彼らの主従の真正性が担保される。そして敵を討ち取り、その権力を自陣営に移管するための証文に、「首」が使われる。同性愛(生)と首(死)この2種類の貨幣をめぐる交換ゲームに、信長・秀吉・光秀を位置づけようとする。信長と光秀の二人は、素朴にこの貨幣ゲーム――武士道(同性愛と首の交換経済)を内面化し、戦国時代をはつらつと生きている。しかし光秀はやがて、信長が実はバカ息子に家督を継ぐ気だと密書によって知ると、武士道の互酬原理をまっとうしない偽の主君への忠誠心を失い、そのとき、ごく一時的に光秀は信長を観念的に凌駕する。
光秀は、本能寺の変に出る夜、それまで秘密に匿い、夜な夜なセックスをしていた同性愛パートナーの荒木村重を処刑用の箱に閉じ込め、「武士の契り(性)よりも、天下(首=手柄)のほうが崇高であることを知った」と言い(大意)、これから行う謀反のための一種の景気づけ、聖別、通過儀礼のように、性愛パートナーを殺害する。そして光秀は武士道が持つ本懐のうち「性」を捨て、「死」の単一化にベットする。そして向かった本能寺で、かつて「お慕い申す」の甘言にコロリと転がされた(もはや掌中の関係が逆転した)信長を討ち取る(もっとも直接に信長を殺したのは、肛門姦=主従の真正性を取り結ばなかったヤスケだが)。
そんな「武士道」というゲームルールをつねに外部から眺めていたのが、ことあるごとに「俺は百姓だ」と自嘲する秀吉だった。彼は信長・光秀のように同性愛(を主従関係の担保に用いるルール)の輪に参加しなかったし、首を武勲の証文に捉えることもしなかった。確実に対象が死んだと蓋然性が得られるなら、「俺は首なんかどうだっていいんだ」と、グチャグチャに傷つきもはや光秀であることの真正性に失った首を、サッカーのフリーキックのように蹴り飛ばし、映画が終わる。そのフリーキックの瞬間、性と死に生きた信長と、死の単一性に投じた光秀と、そして性と死双方への無関心を貫いた秀吉へと、すなわち美学を持たない百姓へ「天下」が移譲していく弁証法のプロセスが完成する。戦国時代における特異点は、アイロニカルな秀吉にあったと締めくくる。
若いころコリン・ウィルソンやサルトルを当然に読んでいたたけしなだけあり、この手の性と死をめぐる弁証法を駆使した作劇など、時間をかければ当然に書ける。一つひとつの場面が理路整然とつながっていて、リズム感を持っているため、退屈しない。順当におもしろい。ただ、「理路整然とされてもな」という感想に着地した。
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