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首のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 いんやぁ面白かったというか味わい深いというか。大傑作とは違うが、大作でクオリティも高い。エンタメ的でもあるが、今までの「アウトレイジ」的ノリとも違う。味わいとしか表現できない。「キラーズ・オブ・ザ〜」に続き、ここんとこ老いた監督たちの老いを感じさせないアグレッシブさに引いてる。どちらも決定打となるカタルシスを避けてるクレバーさもある(過剰さがもたらす影響をわきまえている)。若者としては「さっさと死ねよ!」はこっちのセリフだ馬鹿野郎!いつまで面白い映画撮るんだと悔しい思い。この映画の爽快さ豪快さは、なんだかもう二度と邦画にてお目にかかれないのではと思えるものがあった。

 集大成かと思える役者陣の大盤振る舞いに歓喜。とにかく、こうも役がピタッとハマってるのを見るのも久々。所謂大河的な配役とは違うので、本来的な”配役”の重要性を忘れていたところにコレである。それにしたって、例えば今までたけし映画に出てくれた演者なんかはともすれば同窓会チックになったり、また前作からの引用としてのコンテキストが生まれたりするが、そうでなくちゃんと役に収まっている。全員ほんとに良かったとしか言えない。そんでもって「あんたそんな役もできんの?」という新鮮さも多々あり!

 壮大なニヒリズムが謎の元気を与えてくれたことがかつてあっただろうか。それが笑いのメカニズムとさえ思えるというか、たけしなりのお笑いの到達点だったのかもしれない。時代劇の陰惨さのリアルには、ブレッソンの「湖のランスロ」を思い起こさせたが(首の断面がこちらに向けられる冒頭という共通点と死の軽さの共通点)、今作のパワフルさはブレッソンとは異なるわけで。むしろ「ファントム・オブ・パラアイス」のエンディングソングみたいな、妙にスカッと抜ける後味であるというか。”潔さ”なんだろうな。人間こんなもんか、というのを絶望ではなく一笑してしまえる力がある。ああ、ニヒリズムとはまた別の笑いの力!

 「どうせお前、死ぬけどな」。これはメタですねぇ。歴史モノって全部これ言えるから強い笑。こんな無数の死、それも有象無象による死が我々日本人の根底にあると思うと、良いですね。現実世界で偉そうな連中はみんなアホに見える(流石に今作は「どいつもこいつもキチガイか」とは言わなかったが笑)。あと利休が「襟元をパリッと」って言ったのおもろかった笑。でも、こういうメタに逃げすぎなくて、全部が全部バランス良かったように思う。振り切りすぎないというか。

 黒澤明的時代劇と大島渚的なそこにある男色描写。日本映画をほんとに一心に背負ったのが、まさか芸能出の北野武だったとは。ほぼ途絶えかけていた日本映画史を久々に思い返した。あの能を見せるシーンだって、小津や溝口がやっていたこと以来なんじゃないだろうか。たけしは他のフィルモグラフィでも芸能を押し出していたが、ここにきて伝統芸能もしっかり押さえてきたところに好感が持てる。能の持つ怨念、日本古来の呪詛のようなものをシーンとして目撃できるし、ここが映画のターニングポイントであったことも良い(そして明智は裏切るのである)。ちなみに、黒澤を継ぐとなると男ばかりが出ることになるのだが、かつて「その男。凶暴につき」で誤射で死ぬ女性のアップを捉えたカメラは、今作には存在しなかった。女性たちの斬首でカメラが遠景で回る配慮には、たけしの女嫌いっぽさが和らいだのを感じた(その後生首はバンバン出てくるが、それは死への誠実さと言えるだろう)。ということはつまり、殺されるのは男らであってしかるべきということなのだろう。男の斬首も切腹も、あまりにも軽く描かれている。男の美学としての勇ましい死なんて無いのである。
 
 光源坊率いる集落。障害を抱えているであろう人が、その集落では神として鎮座する。たけしは「dolls」しかり障害者も積極的に起用しているように思える。光源坊の周りで死のための舞踏が開かれ、そして実際に死が彼らに訪れる。あまりにも刹那的な信仰の崩壊。そして、マイノリティが築いた自助のための社会も例外なく破壊されるという容赦なさ。これをしっかり描くことが、今後他の監督にできるのだろうか。また黒人の起用も今作に始まったことでは無いところも、たけしのマイノリティへの温情みたいなものを感じる。ちなみにこの日本的武士道を一刀両断するのがそれまで虐げられた弥助によるものであるのも納得。逆に弥助以外にこれを斬ってしかるべき人はいなかった。

 中村獅童演じる茂助の空虚な野望。スコセッシ映画に出てくる人間並に空疎な生き様。それでいて魅力に満ちているのだから恐ろしい。最初こそそれなりの動機を感じたが、妻子供が死んでもたじろがず、それでいて曾呂利には忠実に支えている。これは「キラーズ・オブ・ザ〜」のアーネストと同じ類なんだと思った。いやもっと空虚、ニヒリズム。天下、侍大将という権力の座のために、首という名の貨幣を求める。貨幣と同じなんだから最終的に首も"本人"である必要がなく代替え効いてしまう。そして、追いに追った首なんてどうでもいいんだと秀吉が首を蹴飛ばして幕切れというあっさりさ。人の命が、貨幣として狩られる業の深さ。そして全編に渡った壮大な虚仮威し。あんなに描かれた”首”さえも重要じゃないとなると、我々が目撃した蛮行はいよいよ言い訳の効かない蛮行でしかなくなる。蛮族の子らよ、しかと我ら先祖を見よ(これ観て初めて日本史に興味出てきた)。
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