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首のkuuのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
3.6
『首』 映倫区分 R15+
製作年 2023年。上映時間 131分。
北野武が構想に30年を費やして監督・脚本を手がけ、『本能寺の変』を題材に壮大なスケールで活写した戦国スペクタクル映画。
武将や忍、芸人、農民らさまざまな人物の野望と策略が入り乱れる様を、バイオレンスと笑いを散りばめながら描き出す。
北野監督がビートたけし名義で羽柴秀吉役を自ら務め、明智光秀を西島秀俊、織田信長を加瀬亮、黒田官兵衛を浅野忠信、羽柴秀長を大森南朋、秀吉に憧れる農民・難波茂助を中村獅童が演じる。

天下統一を目指す織田信長は、毛利軍、武田軍、上杉軍、京都の寺社勢力と激しい攻防を繰り広げていた。
そんな中、信長の家臣・荒木村重が謀反を起こして姿を消す。
信長は明智光秀や羽柴秀吉ら家臣たちを集め、自身の跡目相続を餌に村重の捜索命令を下す。
秀吉は弟・秀長や軍師・黒田官兵衛らとともに策を練り、元忍の芸人・曽呂利新左衛門に村重を探すよう指示。実は秀吉はこの騒動に乗じて信長と光秀を陥れ、自ら天下を獲ろうと狙っていた。

今作品はビートたけし、タケちゃんとはもう呼びにくい北野武監督の頭の中にずっとあったそうな。
1993年、伝説の映画監督はこう予言した
北野がこの映画を監督すれば、必ずや私の『七人の侍』に匹敵する作品になるだろう。
と、残念なことに、黒澤が後世に残した数少ない完全な間違いのひとつかな。
ただ、北野監督が長い間温めてきた今作品は、まったくメリットがない作品ではない。
16世紀後半に実際に起こった事件を再映画化した今作品の、目を見張るような血にまみれた景色は、その時代特有のディテールの数々や、風変りな猛将イメージの印象的な瞬間の数々同様、素晴らしい光景ではあった。
しかし、北野監督の野心と斬首の物語(幾度も斬首される)は、後半になるとほとんど勢いを失い、単調な繰り返しのリズムに落ち着いてしまう。
織田信長は日本の最初の『偉大て奇抜な統一者』と考えられており、ドラキュラのような帽子をかぶった加瀬亮が、この映画で悪役を演じている。 北野監督が心得ていることと云えば、キャストから楽しい演技を引き出すこと。
主な筋書きは、織田信長の家臣の一人である荒木村重(遠藤憲一)が失踪し、信長に謀反の嫌疑をかけられ、織田信長はその後、領土をめぐる囲碁ゲームの如き中で、彼を捕らえ、信長帝国内の反対勢力を探り出そうとする。
織田信長は、村重を追い詰めるために、西島秀俊演じる勤勉でまっすぐな明智光秀や、北野武監督本人演じるのんびり屋で世を忍ぶ豊臣秀吉など、何人もの頭領に協力を求め、そのうちのひとりを後継者に指名することを約束する。
さらに問題を複雑にしているのは、織田、村重、明智がある種の三角関係にあること。
村重は織田に夢中になり、明智は村重に恋し、そして誰もが権力に誘惑される。
織田への忠誠を証明するため、村重が唇を重ねる前に支配者の刃物で口を血で染めるという衝撃的な瞬間が生まれる。
村重は織田に認められようと身を乗り出すが、遠藤は視線だけで、この漫画のようなディテールに燃えるような人間味を吹き込んでいる。
しかし、このシーンは、この映画でわずかに2つしかない、性的に感じられるシーンのうちの1つ(もう1つは、脱いだ2人の情熱的な見つめ合いだが、それだけ)。
今作品は、サムライの野心を性的衝動になぞらえることよりも、サムライの野心をクエスチョン化することに重きを置いている。
その一方で、北野監督が得意とするのは、乱暴な流血の不条理さを表現することと云える。
多くの登場人物(農民、芸人、ヤクザ、それぞれに血で真っ赤に染まった文字が画面に映し出される)が出てくるんやけど、彼らの物語を結びつけているのは、斬首という行為を通じて封建的なヒエラルキーを乗り越えようとする無慈悲な欲望である。
『首』が意味するこの映画のタイトルは、証拠のために切断された首を運ぶのに使われるカゴの一種である首袋を指している。
冒頭のシーンから、北野はこの特殊な性質の殺戮をほほえましく楽しんでいる。
北野は、しばしば漫画的に描き、循環的で無意味でさえあるかのように見せる。
しかし、このような権力争いから放射状に広がる巻き添え被害は、より巧みで丁寧な手つきで扱われる。
登場人物が愛する人を失った場合、それは戦場での派手なバラバラ死体や卑怯な裏切りよりもはるかに悲劇的と云える。
この時代の華やかさや状況はしばしば前面に押し出され、カラフルでゴツゴツした鎧や重い布地が、登場人物が動くたびにイライラさせる騒動を引き起こしている。
今作品の衣装デザイナーと映画チームは、伝説的なサムライたちが一歩一歩歩くたびに、肌になじまず、明らかにかっこ悪いと思わせるのに一役買っている(その不快感は、この映画の滑稽なキャラには反映されていない。)
しかし、こうした時代特有のディテールへの細かい配慮にもかかわらず、北野武の映画作りは、策略をめぐらす登場人物と同じくらい熱中しすぎている。
権力構造について、そして熱狂的な願望について、彼が云いたいことは何であれ、
131分の上映時間の中で明確に、そして素早く語っている。
この暴力的なイメージの平板化は、ある意味で今作品のすべてのポイントなんやけど、本質的には戦争映画であるこの作品に逆説的な底流をもたらす結果となった。
カメラは常に、いたずらな動きと突然の血しぶきによる北野監督の大規模なジオラマに夢中になっている。
それは、しばしば膝を打つような面白さなんやけど、問題はその多くが、人間の暴力とそれがいかに破壊しようとするかについての宿命論的な反省文のようにも見えること。
北野監督はこの種のシーンを切り離そうと懸命に努力しているが、その切り替えはしばしば唐突で(エンディングも同様)、その相互作用が暴力や野心について、現実のものであれ映画的なものであれ、価値あることを語ることはめったにない。30年以上にわたって北野監督の脳裏を駆け巡ってきたと思われる糸やアイデア、イメージの断片から生まれたものである。
残念なことに、それらは陳腐化しており、価値ある大局観が浮かび上がってくることはないと個人的には思った。
でもまぁ映画館に出向いて観る価値は多少なりともあったかな。
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