アオヤギケンジ

首のアオヤギケンジのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
4.1
どいつもこいつも狂ってる時代劇映画。長文です。
戦国時代版アウトレイジと言われているが、じゃあアウトレイジの続編撮れば良かったじゃないかとも思うが、そうではない。設定を戦国時代にしたことはかなり功を奏している。
今作は歴史ものの一つの重要な要素である語り直しが非常に機能しており、実際にあった出来事で、しかも多くの人がその顛末を知っているからこそ物語の語り直しによる面白味が数段上がっているように思う。
北野映画として観ると、今作は非常に笑いの多い映画である。北野映画は大別するとバイオレンス映画とコメディ映画に分類されると思うが、コメディ映画を撮るときに北野武はビートたけし名義で撮るので、そういう点からして、笑いは多いものの、今作は北野武の中ではコメディ映画と言う意識は少なかったのだろうと思う。実際に目を伏せたくなるようなシーンは多かったし、『首』というタイトルからして、暴力を描く映画であろうことが推測できる。余談だがアヴァンタイトルがめちゃくちゃかっこ良くて、個人的には北野映画で1、2を争うかっこ良さだったかもしれない。
コメディ映画と言う意識は薄いはずなのになぜ笑いの要素が多かったのか。もちろん北野映画は笑いを潤滑油として用いる場面はよく見るし、今作だけが特別お笑いシーンを多用しているわけではない。しかし北野武名義で撮る映画にしては笑いの質が違う。笑いの入れ方が、コメディ映画を撮っているときのようなのだ。武は自信が芸人と言うこともあり、バイオレンス映画を撮るときは笑いの入れ方が非常に慎重だ。流れの中でスムーズに入るようにしているし、無理してでも入れようとしている場面はほとんどない(たまにはあると思うが)。一方でコメディ映画のときは流れをぶった切ってでも笑いを入れてくる。コメディ映画のときの北野映画よりもバイオレンス映画のときの北野映画の方が笑えるのは、ここら辺に理由があるのではないかと個人的には思っている。
さて今作である。今作で武は笑いをかなり無理やりにでも入れている。いつものバイオレンス映画と比べると笑いの質が違う。しかしその笑いの質の違いが今作では肝になっていて、前述した語り直しの意味を非常に高めているのだ。
なぜ無理やりにでも笑いを入れたのか。それは戦国武将たちを滑稽な存在として描きたかったのではないかと思う。
戦国武将と言えばどういうイメージだろう。勇猛果敢で武士道を貫き、民草のことを考え、戦は後に来る天下泰平のための仕方のないこと。そのようなイメージを抱く人も少なくないともう。しかし武はそのイメージを完全に壊しに来る。今作で最も狂人である織田信長は言うに及ばず、他の武将たちも欲塗れの人間たちだ。打算に打算を重ね、計算高いくせに馬鹿で、他人を蹴落とすことしか考えていない。絆と呼べるようなものもなく、そこにあるのは愛欲と性欲だけである。
一言で言えば、本当に醜いのだ。
その醜さを際立たせるための滑稽さ、その滑稽さを際立たせるための笑いなのだ。だから今までのバイオレンス映画とは笑いの質が違う。これは個人的な推測に過ぎないけれど北野武は自作の登場人物たちに非常に愛情を持っていて、どうしようもない人間たちを描きながらも、どこかで救いの手を差し伸べてきた。しかし今作に救いの手はほとんどない。冷徹なまでに登場人物たちを余すことなく滑稽な人物として描いている。しかしだからこそ、戦国時代であろうと人が人を殺すと言うことはやはり野蛮なことであるし、戦争と言うものの悲惨さは時代の違いによって語り方を変えて良いものではないのだと、深く思わせる、この歳にして北野武の新境地だったのではないかと思わせる作品だった。