垂直落下式サミング

首の垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
4.5
おらが地元の東海地方が生んだ三英傑。ホトトギスを鳴かせたり殺したり忙しい人たち。世界のキタノはどう描く?
ナゴヤヤンキーの信長。泥臭く生き延びることを恥じとしない家康。そして、偉い人には愛想笑いでへこへこして、家来にはバカヤロウコノヤロウとあたり散らすチンピラ秀吉じじい。
たけし演じる羽柴藤吉郎秀吉は、後の世で万事機転の利く知恵者みたいな描かれ方をするけど、ここではそのイメージを一新。本作では、なんか単に運がよかったみたいな風で、個人の卓越した能力なんかではなくて、まわりの家臣に助けられてなんとかなってた奴だと、後世に伝えられる華々しい英雄譚を否定している。
毛利の水攻めのところなんかこのキャラクターの情けなさが顕著にあらわれていて、かんしゃく起こしてムシャクシャしてると、弟の羽柴秀長がまあまあと諌めに入って、横から黒田勘兵衛がうまいやり方を提言する。
「なにやってんだよ秀長!」「勘兵衛なんとかしろ!」他人任せのダメな殿様。トップが理不尽なことを言って、その周りがオロオロする様子は、たけし軍団をみているようだった。信長の御前の殺伐をみているから、余計に可愛げがあふれる。
百姓の出身であるから譜代家臣を持たない秀吉に長くから仕えた実の弟・羽柴秀長と、名軍師・黒田官兵衛が傍らに控えていると、これこそがたけし軍団ならぬ秀吉軍団なんだと、ほっと安心する。
ただ、やくざもんとしての勘の冴えはピカイチで、純粋闘争の攻めドコロをわきまえた猜疑心のかたまり。優秀すぎるやつは自分の地位を脅かす前に殺しちまおう。そういう非情な立ち回りができるから、戦国時代の一番の立身出世を成し遂げた天下人となれたわけで。バカ集団の寄せ集めではあるけれど、こいつらをまとめあげるボスの器ではある。
「根が百姓なものですから。」って謙遜は、ビートたけしの「おいらペンキ屋の倅だからよ。」って自己卑下とイコールで結ばれる。自分を落として下に行こうとする芸人の魂と武将の処世術が共鳴。他所ではカワイイ猿回しのお猿さん、戻れば内弁慶の猿山の大将、ビートたけしのイメージのそのまんま。
暴君・信長は、天下人に登り詰めたあとってのもあり、実際の戦で優秀だったところは描かれない。ただ単に、横暴で身勝手でイキり散らしてる奴って印象。『アウトレイジ ビヨンド』でこれまでの繊細で物静かな役柄から脱却し暴力性を解き放ってみせた加瀬亮が、引き続き似たような役で役でナゴヤ弁チンピラとして頑張っている。
三英傑の最後は、めちゃめちゃ地味な小林薫が演じている徳川家康。熱や怒りなど動的な感情を削ぎ落としたかのような風体で、まさにたぬきおやじ。結局、本多忠勝や服部半蔵など優秀な部下を強く信頼して、その働きに報いる家康こそが真に侍大将の器だってのも、いい対比になっていた。その上で、とるに足らない雑魚は影武者や弾よけ要員として平気で使い捨てるから、ちゃんとした英雄扱いはしていないのもいい。
一方、平凡な解釈にとどまっているのは謀叛人・明智光秀。かぶきものな主とはそりの合わない真面目な堅物っていう類型的な光秀像だったのは残念。ホモセクシュアル以外の新規性は、残念ながら見当たらなかったのが惜しいところ。
真面目で誠実バカな愚直さは、出世競争の乱世においては通用せず。猿の小手先に唆されて、謀叛人の貧乏くじを引かされることになったとのこと。西島秀俊さんの芝居をそんなにいいと思ってみたことはなかったけれど、信長の書状を読んで憤慨するところや、敗走した先で眼前の下郎を睨み付けながら自刃するところなど、生真面目な武人としての光秀のよさがよく出ていたと思う。
いちばん好きだったのは、キム兄演じる曽呂利新左衛門が子分を引き連れて光源坊のいる竹藪の中の村に行くシークエンス。映像のテイストが急に不気味なものに変わる。『菊次郎の夏』の子供と遊ぶところや『Dolls』のシュールな雰囲気などに通ずるような、はなしの流れを断ち切ってでもアイデアを入れ込み、結果的に不思議なおとぎ話の世界に連れ込まれたかののような錯覚を起こさせる前衛アートイズムが復活していた。荒川良々の船上での切腹も、美しさとグロテスクさと滑稽さとが次々と去来するパワフルな名シーンだ。
劇場で観た北野映画は、エンタメ全振りの『アウトレイジ』からなので、初期作にあったこのATGっぽい感性をスクリーンで体験できて嬉しく思う。