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タブロイド紙が映したドリアン・グレイのmayのネタバレレビュー・内容・結末

4.3

このレビューはネタバレを含みます

タブロイド紙が映したドリアングレイ。そう聞けば、きっと誰もが、ドリアングレイについて事実を報じたもの、と受け取るだろう、

この物語で展開されるのは、事実を報じるはずの「新聞」という媒体が、ドリアングレイを使って、刺激的なフィクションを作り上げていくこと。ただ、フィクションであっても、それが新聞で報じられれば、それはたちまち事実として仕立て上げられてしまう。

象徴的なのは、ドリアングレイが初めて参加したパーティ会場が、壁も床も天井も、すべて新聞で埋め尽くされていたこと。世の中は、この部屋が象徴するように「情報」と「事実」で溢れかえっている、

ドリアングレイは、無垢な性質のために、権力者に利用され、行動をコントロールされていく。でも、最後には、ドリアングレイ自らがフィクションとして生きることを選択する。それは、破滅を示すはずなのだけれど、この物語では、むしろ、ドリアングレイが活き活きと生まれ変わるように表象される、

フィクションと事実の境界が揺らぎ、ドリアングレイの性質が変化していく。それと同時に、展開される映像もそれがフィクションとして演じられているものなのか、事実として目の前に繰り広げられているのかわからなくなっていく。

刺激的な情報が、それは事実である、と担保されているとき、人々は、自分の人生にはないその刺激に欲望を掻き立てられたりするのかもしれない。

服の中に内蔵された電話、薬だけのアメリカンブレックファースト、地下の秘密の通路を経てたどり着く秘密組織のアジトのような新聞社、水辺に浮かべた食事、岩壁から見るオペラ。どれも、まるで夢のように、仰々しいフィクションだ。でも、この映画の中では、それらが全て紛れもない事実であることが一等愉しかった、
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