ぼさー

キリエのうたのぼさーのレビュー・感想・評価

キリエのうた(2023年製作の映画)
3.9
主人公の少女ルカのアーティスト名「キリエ」とは何なのか?ルカとは何者なのか?終盤までは時間を過去に行ったり来たりしながらキリエの謎を追う構成になっている。キリエの謎が全て解けた後で物語を終わらせるための出来事があり物語は終わる。

ルカ(子ども時代後半、高校時代、現在ともに)はうまく話せず聞かれたこと以外は話さない設定であるため、伝聞でしかルカの素性はわからない。周囲の人物の物語が描かれることで謎めいたルカの輪郭が少しずつ明らかになっていく。それとは反対にイッコの謎は深まっていく、という作り。

そしてルカの歌が認められていくサクセスストーリー自体に物語性はないものの登場人物たちの出会いの軸になっており、イッコやナッちゃんの物語が本作を支える構造である。

基本的には本作の人間関係は善意で成り立っており、ルカが困っていたら手を差し伸べる人ばかりが登場するのが特徴。多少怖い目にあっても善意で難を逃れる。

<イッコの物語>
実家の母、祖母など女三代がオンナを使って商売してきたこともあり、イッコはオンナを使うことから抜け出すべく上京したが、結局オンナを使って生きているというオチになっている。
上京してからウィッグや伊達メガネを掛けて偽名を使っている理由は後ほどわかる。
イッコが上京して悪いことをしていたり、高校時代と性格が変化している理由や背景は劇中では語られていないと思う(見逃してるかもだけど)。
本作でのイッコの役割は次のようなものであろう。
・ルカに新しいことをさせるきっかけ役
・ルカの陰を引き立てる陽の役
もうちょっと人物像を描けたと思うけど尺の関係で難しかったのだろう。引き立て役に終始して雑に描かれた人物像だった。

<夏彦の物語>
ナッちゃん(夏彦)は男として生を受けたことで家から背負わされている期待が背景にある人物として薄らと描かれている。親の期待を背負う医学部受験生で高校生の彼女が妊娠してというとっちらかった状況のなかで、恐らく親に妊娠を隠しているために家族のヘルプが得られず彼女へのサポートが至らないながらも何とかやっていこうと将来を考えている人物である。
味方であり頼れそうではあるけれども、若さゆえに社会の仕組みなどには明るくなく、鑑賞者視点だと不安がつきまとう人物像である。しかしルカからは頼れる人物であり保護者的に描かれる。
フィアンセとの経緯描写がすごく丁寧であるために感情移入するポイントが多い。そして夏彦が失ったフィアンセや腹の子をルカに投影する描き方をしているために、ルカの物語が希薄になる一因となってしまっている。

そんな感じでルカ以外の人物たちのサブストーリーが描かれている。

<ルカの物語>
ルカの物語も描かれる。ルカは大地震が来たらキリスト教の教会に逃げそうな少女、すなわりキリスト教信者として描かれる。つまりルカは信仰を実践してる少女なのだ。信仰力のある少女として描かれていることで、義理の兄(ナッちゃん)が大阪にいると聞けば会えることを信じ大阪に行って兄と出会う日を待ち、北海道帯広にいると聞けば帯広に移動したいと施設に訴えて兄に会い一緒に暮らす。
そういえばルカってキリスト教の聖者と同じ名前だよね。ちなみに聖路加病院、聖路加大学というのが築地の隣の地域にあり聖ルカのこと。

キリエ(kyrie)も調べたらキリスト教の用語らしい。リリィ・シュシュのすべてと同様に西洋宗教観を作品に投影している可能性はあるけど、リリィ・シュシュのようには宗教観を感じなかった。

ルカは小学時代から話さない役柄が多くて他のサブストーリーよりも人物像のパワーが弱くなってしまっている感がある。大阪時代はルカのサバイバルな様子がわかるように一日のルーティンを描くくらいの丁寧な描写をしてもよかったと思う。真っ暗な公園が怖くて叫ぶように歌ってたといった描写を入れると、もう少し人物像の輪郭補強ができたと思う。
さらには、一人サバイブして生きてきたはずの芯の強さが隠れてしまっていて、2023年の東京編では内向的で歌がうまい人みたいな人物像になってしまっていたのが不満である。

<気になる演出 その1>
路上ライブにこだわる。序盤にYouTuberのカメラマンが登場したり、中盤にスタジオでの音楽活動のシーンが登場するが、粗品に路上でやらない?などと言わせて路上でライブするストーリーにしている。現代のトレンドに合わせてYouTube配信やスタジオ録音でも物語は描けるはずなのに、そうしないのはなぜか?
現代は音楽配信やSNSなどネットで音楽視聴と情報取得が完結してしまう。そういう状況に対して岩井監督は「生のライブ」の価値提起をしたいのではなかろうか。多くのミュージシャンを出演させていることもあり「配信よりもライブ」みたいなメッセージが強く働いているように思えてならない。

<気になる演出 その2>
エンドロールで現在のルカの様子として簡易宿泊施設(?)での生活が描かれている。ナッちゃんと再会したから一緒に暮らすのかと思いきやそうではない。
ルカは小学生低学年で被災してからずっと一人で生きている。大人になり歌の仲間ができたり、イッコやナッちゃんと一時的に暮らすものの、その関係は社会によって切り裂かれて一人で生活することを強制されてしまう。
小学生低学年で被災してからずっと一人で生きていて、これからもずっと一人で生きていくの?そう示唆されて演出されてるのが不憫でならない。本人を歌が救ってるとか、信仰に救われているとか、そういうのをロマンチシズムで軽薄に感じてしまうほどに不憫でならない。ただただ不憫。なんでそんな不憫な結末にしたんだ?哀しくてこのレビューを書きながら泣いてしまった。

<作品のメッセージ>
まさかタイトル通りのキリエの歌の素晴らしさを伝えたかった訳ではあるまい。そしたら壮大なPV作品になってしまい作家性の強い映画芸術ではなくなってしまう。

正直、岩井俊二監督のメッセージや込められた想いは伝わって来なかったので、作品そのものが帯びているメッセージについて。
時系列に箇条書きしていくと次のような物語だった。
1.震災孤児
2.震災の後遺症
3.震災から10年以上経過
4.主人公に耳を傾ける、立ち止まる
5.主人公に手を差し伸べる
6.主人公は一人で生きていく

歌がうまいからというのもあるが、善意でルカに手が差し伸べられる様子が重ね重ね描かれていることから、我々も震災孤児のルカが歌っていたら耳を傾けて、立ち止まり、手を差し伸べようと意識づけられているように感じた。
震災孤児がこの日本のどこかにいて暮らしていることや親がいないことのディスアドバンテージを背負いながら大人になっていること、等に思いを馳せられる演出にはなっていたと思う。「傍観者にならずに積極的に関わろうよ」というメッセージを帯びていたように感じた。
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