砂

キリエのうたの砂のレビュー・感想・評価

キリエのうた(2023年製作の映画)
3.8
大いなる外力の中で、人は意思で何かが出来るのか?

育った環境、トラウマ、行政や警察といった社会の仕組み、そして震災。今作の登場人物たちは、これらの外力に晒されていく。

先日、脳の病で発話しづらくなった方にお会いする機会があった。頭ではイメージできているのに、どうしても身体が言葉を発音してくれない。自らの身体の他者性、といったところで伊藤亜沙氏の「どもる身体」が思い出された。

キリエが会話は苦手だけど歌うことならできる、というのも、キリエ自らの問題というより、自らの身体が働いてくれない問題という意味で、外部のものだ。
歌ならば、自分と身体との言語的チャネルの問題は関係なく、より原始的な身体感覚なので自分と身体が同一性を帯びて歌える、というのも筋が通る。
そういう方法で、キリエは外力に抵抗していた。


イッコは、育った環境という外力に対して、大学進学という手段で意思を持って抵抗しようとした。だが、金銭問題という別の外力によって、その手段を断たれた。
その結果、金銭問題に抵抗する為に、忌み嫌っていたはずの、女を武器にするという手段を取るようになる。毒を以て毒を制したというべきか、外力から逃れられなかったというべきか。その歪さはハレーションを起こすが、その責任を全てイッコが負うべきとは思えない。

血縁関係の有無も、意思で選べるものではない、外力である。
黒木華が幼きイワンと切り離されたのも、松村北斗が帯広でキリエと生きていけなかったのも、彼らに血縁関係がなかったからだ。

望まずとも母と同じ手段を取ることで血の繋がりを自覚せざるを得なかったイッコと対照的であり、残酷だった。

そんなどうしようもない外力の中で、人はなにもできずただ流されるしかないのか?

最後、新宿で歌い続けたキリエの声は、それで外力をどうこうできるでもない、ちっぽけな抵抗だ。社会のルールにも反しているし、不正解とされる行為だと思う。

だが、不正解は無意味を意味しない。

その思いは伝わる人には伝わり、なによりキリエ自身に残ってくれる。それはいずれ、外力を超えた力を持ち得る。

外力が自分を邪魔するなら、自分を助ける外力を生み出してやる。そして、そのいずれを迎えに行く為に、とにかく生き続ける。

そんな力強さを感じるラストだった。
砂