せいか

ガザ攻撃 2014年夏のせいかのレビュー・感想・評価

ガザ攻撃 2014年夏(2015年製作の映画)
3.0
10/22、最近の情勢を受けて公式がYouTube上で期間限定で公開することに踏み切ったという案内を公開当日まもなくの時点でたまたまTwitter上で見かけて知り、視聴。中東やアフリカなどの問題は以前から目を受けてはいたのだけれど(全然勉強不足レベルだが)、日本人がこういったドキュメンタリーを撮っていたとは恥ずかしながら知らなかった。同監督が十数年にわたり密着取材をしてパレスチナを映したという『届かぬ声』4部作も機会があれば観たいと思った。あと、イラクの話になるけど、『ファルージャ』も気になる。『異国に生きる』という、日本で暮らすビルマ人のドキュメンタリーも気になる。慰安婦問題のやつとかもいろいろ気になる。おごご。

本作はタイトルの通り、2014年のまだ記憶に新しいガザ侵攻を扱ったもので、そこに住まう住人たちや場所の当時の様子をインタビューと共に映している。2014年当時のことやいわゆる長きにわたるパレスチナ問題の基本知識くらいは最低限は詰め込んでから観たほうがいいかなとは思う(仮にそれを飛ばしても映し出されるもののあらゆる意味での悲惨さを汲み取ることはできるだろうけれど)。どういった物事の関連がそこにあるのかを自分なりのものにしかなりようがないけれどそこは踏まえた上で映し出されている人々を観るのは誠意だとも思うというか。
そしてまたわれわれ自身まで話を狭めると、当時の日本のメディアや世論、大衆はどうこれを捉えていたかというか。

インタビューはどの話者の語りもそれぞれに強烈なのだけれど、そのなかでは特に、身元不明扱いだった妻の遺体が二つの病院にバラバラに安置されていたというものが一際記憶に残った。また、この攻撃によって数多もの死体ができたのだけれど!残された人々はその発見場所からおおよそ誰の遺体であるかを推測するしかなかったという。

あくまで語り手という視点を通し、そこに住まう人々を映すという撮影目的を通し等々あらゆるフィルターを通過してこのドキュメンタリーは成り立っているので、それらの意図や訴えるものをこちらは捉えることになるのだけれど、戦争の恐怖・暴力が生みだす普遍的なものがそれらのフィルターを通して見えてくる作品だった(※もちろん、この感想に物事を一般化、平板化して個々を無視するという意図はありません)。
人々には生活があって、社会があって、それらの背後には積み重ねられた歴史、政治もある。この中で築かれている日常はその複雑な綾の中でどこかが張り詰め、引き裂かれ、それに引っ張られて瞬く間に形を変える。そしてまたその新たに歪な過去となった綾をそのまま継いでまた複雑に織り重ねていくことになる。インフラへの影響という点での発言になるが、あるインタビュー対象の発言の中にも見られたように、戦争が終わればそれで終わりということにはならず、「長期的に住民は苦しむことになる」のだ。破壊されたものはあらゆる面において消えることのない影を落とさざるを得ないのだから。そしてこの点はより短期的な視野にしても(もちろん長期的な話にもなるのだけれど)、そのインタビュイーもおっしゃっていた点ともやはり被るけれど、人を削られ、場所を潰され、信仰の証を破壊され、きょうの生活をするための設備も吹き飛ばされということをされてしまえば、その土地はその日から停滞するしかなく、その停滞は攻撃そのものは止もうとも着実に人々を摩耗させていくことになる。どこまでも打擲し、敵としたものを衰弱させるその残酷さ(さらに言えば、取り敢えずそれらの外野に位置するだろう世界がそれをどう見てどう接するのか、接したのか、接してきたのかでもある)。
また、繰り返しになるかもしれないけれど、それぞれのインタビューからはその対象がこれをどう捉えているのかといったものも伺えるのだけれども、語る内容や物事の捉え方に違いはもちろんあるのだけれど(内部への目の向け方もそれぞれにもちろん違ってくる)、それでも共通しているところから垣間見えるのは、(ここに至るまでのものは置いておいても)もはや持たざるを得ない遺恨といったものだなあと思った。少なくとも現地においては、複合的な個々の時事または背後にあるものの類や積み重ねてきたものはどうであるとか、個々人がだからどう考えているかというような個別のものたちはあれど、この傷跡のレイヤーがまず上に来るというか。そしてそれが確実に新たな負の種となって引き継がざるを得ない、終わらない暗い営みがあるというか。こういうことは日々の中でいつもあらゆるものに対して思わされていることだけれども、やはりそこが強烈に伝わってきた。

人は何を抽出して何を敵として捉えることになるのか。これはまた集団の規模が膨らむほどに血の通う人間個人というものは無視されてもいくものなのだけれど、武力行使が現在であればあるだけ、それに反して自分たちの側の人間個人は強烈に介することにもなるというか。

そこにある人間社会・文明が停滞させられるとはどういうことなのか、それを人間が力を振るって招くとはどういうことなのか。そこにあってそこで生きている社会というものがどうしなければ回らないものであるのか。話を卑近にして語るとうつしだされたものたちを蔑ろにしてしまう危険はあるのだけれど、その点を踏まえながら本作を観ることも現代の日本社会のよくできたからくりの中の生きる我が身としては意味があるというか、そこから人間の営みや社会、戦争について考える一助にもなると思った。世の中は脆い。自分が立つ社会も脆い。そしてその脆さを突くことになる動機にも世界は歳月とともに増やしている。インタビュイーの中には、今の状態は人間の尊厳が踏み躙られている。汚辱の中で生きることになるなら死にたいという旨の発言をしている方もおられたが、まさに人としての尊厳とは何なのかというところとも繋げつつ考えていくことにもなる。本作でのこの箇所については、ハマスの攻撃のお陰で民衆たちの尊厳は守られたという語り手もいたり、やはりここは観ていて頭の中で引っかかってくる。遺恨の話をする中でそれゆえに停戦に反対し、現状においての停戦はすぐに破綻するものでしかないと語り、相手と戦うにあたっての付きまとう代償は覚悟すると語りつつ、ハマスの行い自体はこのときに一言でさり気なく脇に置き、責任はパレスチナ指導部やイスラム組織へと言う、この語りから滲み出る暗いものよ……。特にこの終盤に登場する語り手は群を抜いて普遍的な泥沼化の一側面を如実に我が身のものとして語る言葉としていた。簡明に表現すれば、観ていて怖かった。そういうものがあるというのは分かってはいるけれど、顔もある肉声として突きつけられると心底ぞっとするものがある。この地を去る選択はせずに生きていかんとするこの人物の言うことも一部は分かるけれど、彼にとって生きるために戦うということから見えるその危うさ、心に生えた根の深さ。自分の国で他の人間が生きているように生きられることを望むだけだと言うその口で、断ち切れない負のメビウスの輪状のものを語るその未来の怖さというか。この尊厳は容易に血の池を生み出せる尊厳になる救いのなさ。
だからどうすればいいのだろうを考えていく中でまた場合によっては(というか多くの場合)さらに暗部へと押し進んでいくことになってるのも人ないし人々というものの営みの一つなのだろうけど(例えば、保全という視点から考えてみてもらえると良いかと思う。昨今の日本においては言われずとも思考の中にあるとは思うが。また、本作でもまさにそこを考えざるを得ないものは映されていたが)、相変わらずしんどい気持ちにさせてくれるよな、人間ってやつはと思わざるを得ないところ掠めつつ、辟易しつつ、それでも考えていくことになるのだけれども。
そしてもっと重要なのは、今まさに(というか本作の場合はその撮影時点において、またはその後を生きるということにおいて)その窮地に立たされている人々や社会があるということで、もちろんその力の暴力の背後のいろいろな保留事項みたいなのもあるのではあるけど、そこに生きてる人々がいることも忘れてはいけないのだよなあという。もちろん、表面的な憐憫や、衝撃的なものによってこれによって目が覚めるような思いを抱くというわけではなくて(たとえば2015年に特に時事問題となっていた難民に関し、取り敢えずの外野ぶってる社会が子供の死体が漂着したことでショックを受けたというようなものすごい態度があったのだけれど、つまりそういうような態度で捉えるのはどうかしとるということである)。

断ち切るのは難しいその怒り(そしてその怒りも数多の糸が繋がっている)を目の前にしたとき、あるいは自分がまさに抱えたとき、どうしたらそれが少しでもマシな方向に行けそうなのか、そもそもそれはどこからきたものなのか。どこから来てどこへ行くのか。
世界には巨視的レベルでも逆のレベルでもどこにでもあらゆる暗い影が落ちていて、光ももちろんある(からこそ影もできる)けど、それらを目の当たりにしてこの地上を生きることになっているわけで、しみじみ思い続けていることではあるし、私がそう思うまでもなくそのようなことは何度も指摘されてきたことでもあるけれど、私は考え続けねばならないのだよなあ。それが具体的に世の中を良くするかとか否かとか、功利的なものが伴うか否かとかそんな話でなくて、ひたすら、ただ、自分の中でちゃんと考えて捉えていくしかないというか。こと国内にしてもだいぶ縄の上を歩くことを平気でしているところが多方面にあって日々怖くて仕方がないし、勘案すべき過去は都合好く押し流されてるのかもはや考える頭もないのかみたいなところがあるので、ほんと、マジで、考えるを止めないのは大事だと思う。考えるために情報を小まめに得ることとか付随して他にも欠かせないことは山とあるのだけれど。ハンナ・アレントもこういったことは言ってるけど、ほんとそこに尽きるというか。
この点、割と表面的には善の場合もあるけど、思考というものが及んでいないものとかまま見かけることあまりにもあるし(余談だけど、やらない善よりやる善みたいなのもこういうので正当化されて誤用されてるとこもあるんだよな……)、私自身、その及ばなさは日々実感してるところなので反面教師的に反省してるところでもあるのだけれども。関心を持つとはどういうことかというレベルから割と内省してみたほうがいいと感じるというか。これはわがことでもあるんですけど、こういう点に関して本件に限らないけどなかなか大っぴらに痴鈍かつ愚昧にして虚仮みたいなところ、要は愚人ということですが、まま見かけるので……。悪の凡庸さってなんだと思います?みたいな気持ちになるというか。最後に日々感じてるふつふつと腸にきてる話で締めるのもあれなんですが。
せいか

せいか