くまちゃん

PERFECT DAYSのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

世界初の実写商業映画はルイ・リュミエールによる「工場の出口」である。これは工場から出てくる人々を映すことのみで構成されている。
ドイツ映画の一時代を築き上げたヴィム・ヴェンダースと40年以上のキャリアを誇る役所広司。この二人による化学反応は映画産業を原点に立ち還らせ、進化し続ける映像技術の危険性に一石を投じる。市井に暮らす人々、その生活の一部を切り取っただけでこれほどエモーショナルな画になるのだ。

ヴィム・ヴェンダースは役所広司を素晴らしい役者であると評し、他の俳優でも平山を演じることはできるが、役所は平山そのものになったと称賛している。
役所広司自身も自分を知らない外国の観客が本物のトイレ清掃員をキャスティングしたと錯覚してもらえたら嬉しいと語っていた。つまり今作は役所広司だからこそ成立した映画であり、メガホンを取ったのがヴィム・ヴェンダースだからこそこの奇蹟を起こせたのだ。日本人なら多くが俳優役所広司を認知している。にも関わらず、あの手際の良さ、合理的で無駄がなく熟練されたトイレ清掃のワンシーンを見れば役所広司は俳優を引退していたのだと勘違いしてしまいそうになる。それほど板についていた。違和感がまったくない。ヴィム・ヴェンダースはドキュメントを多く手掛けているため、今作はトイレ清掃員役所広司の日常を捉えたドキュメンタリー映画の様相を呈する。

平山は毎朝近所の箒の音で目が覚める。
畳に沿って敷かれた布団、文庫本以外の余計なものがない室内から平山の性格や生活が読み取れる。布団をたたみ、歯を磨き、観葉植物に水をかけてから外に出る。毎日毎朝同じことの繰り返し。家族はいない。それでも孤独を感じさせないのはルーティンのせいだろうか。それとも行きつけのお店には顔なじみの常連客がいるからだろうか。外に一歩出て、空を仰ぐ平山の顔はいつも晴れやかだ。例え天気が悪くてもそれは関係ない。晴れている今を、曇の今を、雨が降っている今を受け入れている。ボロボロの自販機でBossのカフェラテを買い、現場までの移動中はカセットで洋楽を聞く。

日本のトイレは世界的に見ても清潔感があり美しい。今作で登場するのは一見トイレに見えないものばかり。これは日本財団が実施する公共プロジェクト「THE TOKYO TOILET」によって多様性の社会の実現を目的として渋谷区に設置された公共トイレである。その清掃員はファッションデザイナーNIGOが監修を務めたオリジナルのユニフォームに身を包む。作中平山やタカシが着用しているのがソレだ。
世界的なクリエイター達が独自の視点で創造した様々なトイレは日本のクリーンなトイレ事情を象徴し、観客を日本人でも知らないトイレ巡りの旅へと誘う。

坂茂がデザインしたトイレは淡く美しい光彩を放つ。個室でありながらガラス張りで外から内部を確認できる。利用しようとした外国人は使い方がわからず平山に英語で尋ねる。平山は英語は話せない。だが相手の言わんとすることは理解できる。無言で使い方を教える平山。施錠することでガラスが不透明になり内部が見えなくなるのだ。トイレが綺麗なのは清掃する人がいるから。トイレという空間と平山の人柄が日本人の人情味を表している。

今作で田中泯はホームレスを演じている。いや演じているというのとは違うのかもしれない。そのホームレスは平山の生活圏内で鋭いキレと緩やかさを持った独特の「オドリ」を舞い続ける。つまり「田中泯」そのものなのだ。ヴィム・ヴェンダースは田中泯を強くリスペクトしている。そのためセリフも無いそこにいるだけのホームレスという役を引き受けてくれるとは思わなかったそうだ。だが今作を見れば「そこにいる」と「そこに存在している」では全く異なることがわかるだろう。田中泯は踊り続けた。圧倒的な存在感で。名も無いその人物に、名も無いそのオドリに平山の目が奪われるのは自然のことだろう。田中泯はその瞬間に生きているから撮影されたものは自分とは別物、だからそれは好きにしていいと泰然としていたそうだ。その瞬間に感じたものが全てだからだと。それでもヴィム・ヴェンダースは悩んだ。田中泯のあのシーンがどうしても入らない。その結果、悩んだシーンを使わずに映画は完成した。
ヴィム・ヴェンダースは田中泯を余すことなく味わい尽くしたかった。その熱い想いは「PERFECT DAYS」から分岐した短編という形で実を結ぶ。ヴィム・ヴェンダースにとってドキュメンタリーは得意分野。それはまさにサイドストーリーでありながらヴィム・ヴェンダース×田中泯の手抜きなしの職人仕事であった。

友山は平山の行きつけの飲み屋のママの元夫である。離婚から7年が経ち、自分には新しい家族がいる。だが最近癌が見つかった。その病魔は確実に命を脅かし、今では全身に転移している。あとどのくらい生きられるのかはわからない。せめて別れた元妻へ謝罪とも感謝ともとれる言葉を何か伝えたかった。
平山と友山は初対面だが、タバコと缶ビールを分け与え、友山を気遣う。その寡黙な優しさは短い友情を生む。友山は言った。影は重なると濃くなるのかと。それに応えるかのように影を重ねる平山と友山。平山は提案する影踏みをしようと。日の暮れた高架下でお互い影を重ね、相手の影を踏もうとじゃれ合うおじさん二人。この場面に今作のもつ不思議な優しさと小さな奇跡が集約されているように感じてならない。

木立の隙間から溢れる日差しを木漏れ日と言う。この表現は日本人独特のものだ。平山は幸田文の「木」を読み、生い茂る木々の写真を撮っている。カメラを覗かずシャッターをきるため、まともに現像される写真は数少ない。平山にとって綺麗に撮れた写真は木漏れ日のような刹那的な現象だ。

平山は常に自身のルーティンを遵守し極力無駄のない生活を送っている。平山は動かない。だが無口でぶっきらぼうな彼の周囲は常に人が寄ってくる。ニコ、アヤ、タカシ、飲み屋のママに友山。感情を表に出さない奥ゆかしい古き良き日本人の優しさがそこから滲み出ている。ふとした瞬間、平山に会いたくなる。彼は自然そのものであり、今作に根差す大木なのだ。

平山はニコに譲った「11の物語」を古本屋で再購入する。店主は言っていたパトリシア・ハイスミスは不安と恐怖を描く天才だと、不安と恐怖の違いは彼女から学んだと。この的確な書評を述べる古本屋の女店主は独特の声で独特の存在感を醸し出す。演じるのが犬山イヌコだからだろうか、どうもニャースがチラつくがそれも気になるレベルではない。
ちなみにパトリシア・ハイスミスと言えば「太陽がいっぱい」や「キャロル」の原作者として知られる。ヴィム・ヴェンダースが監督した「アメリカの友人」は「太陽がいっぱい」からなるリプリーシリーズの三作目である。

ヴィム・ヴェンダースは小津安二郎を敬愛している。1985年公開のドキュメンタリー映画「東京画」では小津安二郎の墓を訪問し、縁の深い笠智衆やカメラマンの厚田雄春へのインタビュー実施しており、また今作でヴィム・ヴェンダースは役所広司を自分の笠智衆を得たと喜んでいた。役名の「平山」とは小津作品にて笠智衆に幾度かつけられた役名でもある。さらに平山の姪ニコを演じた中野有紗には原節子を重ね合わせていたそうだ。
平凡なものは非凡であり、非凡なものは平凡である。全ては個人の気の持ちよう。目の前のことに真摯に向き合い一生懸命取り組むことが小さな奇跡を呼び寄せるのだ。平山の過去に何があったのか、それは誰も知らない、知る必要もない。平山は確かにここにいる。この世で真面目に人生を謳歌しようとする自分こそが平山なのだ。彼は今日もどこかの公共トイレを汗水流して綺麗に清掃していることだろう。安心していい。街に繰り出せばどこかのトイレで平山と出会うことができるはずだ。なぜならこの世は奇跡に満ち溢れているのだから。
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