ルーチンワークのような同じような日々の繰り返し。仕事は公衆トイレを巡って掃除すること。そんな晩秋を迎えている一人暮らしの初老の男。
そんな暮らしをじっくりと眺めていると、その基調にあるのはほんとうに愛せる事を生真面目なくらいに丹念に行うこと。大切なことやひとをまっすぐに静かに愛すること。それは退屈なルーチンワークではないし、まして苦行や修行ではない。
食べることは排泄することと対である。その意味ではその場を清浄に保つ仕事のなんと神聖なることだろう。生い茂る木々の木漏れ日は、瞬間瞬間の出来事で一つとて同一ではない。取るに足らぬような小さな鉢植えも日々手間を掛けるごとに青々しく元気に育つ。
そんな日々にも微妙な小波がたち、心躍る事件や人生の深淵を覗くような出来事にも出くわす。
ボーイ・ミーツ・ガール。本作はヴェンダース・ミーツ・役所広司。(あるいはその逆、または両方)
互いの存在なくしては、成立しない作品だった。派手なアクションやストーリーで愉しませるものではなく、シンプルな構成や展開であっただけに役者の「いるだけなのになにかを訴えてくる」存在感や年輪みたいなものが必須。
同じ「世界」に生きていても、その世界で感じることや求めることは人それぞれ。物理的に言えば同じ世界かもしれないが、認識している世界は別モノであることが多いのは年齢を経れば経るほど自明となる。
断絶や致命的な違いと取るのか、それを生きることの自然、哀しみだと思うのか。
ヴェンダースは生きることの本質や意味をどちらだと考えているのか。それはいうまでもなくスクリーンの奥にハッキリと映っていた。