プリオ

PERFECT DAYSのプリオのレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.0
映画は何かしらの葛藤を抱いた主人公が、障害を乗り越えることでメッセージを投げかけてくるもの。あるいは、ある欲望を抱えた主人公が、クライマックスにおいて目的を果たすことで感動させにくるもの。

しかし。

この映画の主人公は、最初から至極満ち足りている。障害を乗り越えることもなければ、目的を果たす過程で挫折することもない。主人公に必須要素である『葛藤』というものが存在しない。

そう、今作は、最初から完成された一人の人間の物語であり、一つの理想的な生き方いわばロールモデルとなる男の話だ。

そして、一言で言うと『幸せ』について考えさせられる映画だ。

人は幸せになりたいはずだが、果たして幸せとはなんだろうか。幸せとはどんな状態を言うのだろうか。

例えば、タワマンに住み、高級車に乗り、海外旅行に行きまくり、たくさんの友達がいる。

そんな状態も、一つの幸せの形だろう。

また、精神的な側面では、苦しいことでもしんどいことでも、乗り越えて得ることができる幸福感があるだろう。それは遊園地の乗り物で例えるならスリル満点の"ジェットコースター"だ。

そんなジェットコースター的な幸せと対極として、今作の主人公である平山の生き方があるかもしれない。それは言うならば"メリーゴーランド"的な幸せだろうか。

平山の日常において、激しく感情が動くことはない。飛び上がるほどの大きな喜びもない。あるのは緩やかな感情の動き。そっと噛み締めるような喜び。ささやかな幸せ、だ。

それは側から見ると、とてもわかりずらいものだろう。他者から見ると「いったい何が楽しくて生きてるの?」、「頭大丈夫?」と理解不能な生き物あるいは可哀想な対象として見られることも多いだろう。

確かに、現代は多様性の促進でいろんな生き方が肯定されるようにはなっているし、今までの一般的な生き方である多数派が少数派になるような流れもあるだろう。

でも、やはり、平山の生き方には、まだまだ理解できない人には理解できないものだと思う。

映画中盤に、それを象徴的に表すシーンがある。

それは、橋の上での、平山と姪っ子の対話シーン。

そこで姪っ子は、お母さんに平山の話をすると黙ってしまう的なことを言っていた。

それはまさにお母さんが、平山のことを意識に上らせたくない、平山を異物として見ていることの表れ、だろう。

そして、平山は姪っ子に言うのだ。
お母さんと自分の世界は違う、と。
そして、姪っ子は聞くのだ。
私は、どっちの世界なの、と。

自分はどっちの世界を選ぶべきかー。

この問いに対する平山の対応ひいては表情に、この問いの難しさや深みが現れている気がする。

この世界には、自分の世界の正しさを他者に振り翳すやつがいるだろう。この生き方が正しいから君も真似しろと、引き入れようとするやつがいるだろう。

しかし、平山は、そういったことをしないのだ。

そして、そんなところに、平山の『人』としての完成度が表れている気がする。

本来、人は自分の世界を肯定しようと、他者に己の思想哲学を突きつけがちだが、平山はそうではないのだ。そしてそれは、平山が自分の世界に満足しているなによりの証拠でもあり、姪っ子を自分とは違う一人の人間として尊重しているからに他ならない。

また、平山は自分の世界に遊びにきてくれた姪っ子に対して、嬉しくもあるが、申し訳ないような気持ちもあるようにも思えた。

おそらくその理由としては、世間的には理解されない自分の世界(少なくとも妹からは理解されていない自分の世界)を、姪っ子に教えてしまうことへのためらいのようなものがあるのだろう。

なぜなら、他者と関わることは、人の一生を左右することにも繋がるし、それまでの自分ではいられなくなることもあるからだ。

それが良いか悪いかは後になってからじゃないと分からないし、極論何事も経験だと思えば自分がそれに満足さえしていればオッケーなんだとも思う。

姪っ子は一時的ではあったが、平山の世界を経験することで新しい幸せに気づけたんだと思う。そしてそれは同時に平山にとってもおそらく大きな幸せであったとも思うのだ。

また、この映画は、そんな世界像の違いを描くと共に、平山という男の日常ルーティン動画でもある。

我々は平山というトイレ清掃員の変わり映えのない日常を見ているうちに、胸の内の深い部分が刺激されるのだ。そして日々感じていたことを思い出し、自分の中に平山を見つけて安心感を得るのだ。

平山の1日の流れはこうだ。
外から聞こえてくる箒の音で目を覚まし、布団を畳み、髭を整え、植物に水をやり、自販機でコーヒーを買い、仕事に向かう。トイレ清掃の仕事を終えてからは、銭湯で一番風呂に浸かり、いきつけの居酒屋へ行き、夜は寝る前に読書をする。ちなみに仕事が休みの日には、古本屋に行ったり、いきつけのスナックで飲む。

そんな平山のルーティンを見ながら、我々は平山という男を通して日常の中に潜む小さな幸せを見つけることができるのだ。

映画においてSF的なループものってあるけど、これはリアルループものとも言えるだろう。

ただ、平山のように生きていると、日常がループのようでループじゃないことに気づくのだ。

今日と昨日は違う。
一日たりとも同じ日はない。
同じような流れの中に、見つかる変化。気づき。発見。
一方で、お馴染みの場所がある喜び、同じことができる幸せ、満足感もあるだろう。

おそらく、幸せとは、今あるものを感じたり味わうことで手に入れることができるのだろう。この映画で、平山は今すぐ幸せになれる方法を具体的に教えてくれる。「あ、この人の習慣真似したいな」と取り入れたくなる。そんな魅惑的でどこかカリスマ性までも漂わせる平山に誰もが惹きつけられるだろう。金に支配されているこの世界で、平山の生き方は一つのロールモデルとなるだろう。

人は、ここではないどこかへ、これじゃない何かを求めて、動きがちだ。しかも現代は決まった生き方がなく、いろんな生き方が認められている分、余計人は路頭に迷う。自分の感じ方、生き方、ルーティンに自信が持てないだろう。だから、他人の日常を見ることで、自分と同じところを見つけたり、新しいものに対する驚きや発見があるわけだ。

ほとんど喋らない役所広司の顔や佇まいから、我々は彼の感情を想像するしかない。

でも、その感情は、我々にも分かるものだ。

元々あったものだ。

忙しい現代人が忘れかけてたものだ。

忘れていたものを思い出し、そこで得る感覚が、この映画における感動の正体なんだと思う。

この映画を見終わっての感想は、
平山に共感できないし、自分はしない
平山に共感はできるが、自分にはできない
平山に共感できるし、自分もしたい
の大きく三つのパターンに分かれるだろう。

ちなみに自分は三つ目のパターンだった。

でも、完全に平山のような生活を送るのは無理で、あくまで平山的要素を取り入れていきたいと思った次第である。特に何かを育てたり、記録したり、コレクションすることは、おそらく人生を楽しむ秘訣であることを知った。

そして、ちゃんと丁寧に感じること、味わうことが幸福度を上げてくれるような、そんな気がした。

トイレ掃除においても、また汚れるんだからとスマホをいじりながら適当に掃除する者もいる。かたや、平山みたいに丁寧に汚れと向き合って掃除する者もいる。

この違いは、シングルタスクとマルチタスクの違いともとれるだろう。

前に、僕は、スタバで大学生らしき女の子が、シナモンロールを食べながら、スマホでゲームをして、パソコンにてリモート授業を受けているのを見たことがある。

僕は、それを見て、なんとなく思うところがあって、なんでそんな状態になってしまうのかつい考えた。

おそらくその女子大生には、何か良いことをやっている気がする、といったまやかし的な安心感や、マルチに物事を進めることで効率よく自分はやっている、という満足感があると思われる。

だが、この女子大生のような状態だと、授業の内容もそこまで入ってこないし、スマホのゲームも効果的にできないだろうし、シナモンロールをしっかり味わって食べることはできないだろう。

また、おそらくだが、女子大生の深層心理的には、単にリモート授業を受けたくないという「逃避」が働いていると思われる。もし本当に好きで知りたいなら、ちゃんと授業だけを聞くはずだし、ちゃんと先生の表情や雰囲気にも着目し、先生の話を聞く中で出てくる自分の感情や思考と向き合う、そんなことをしたいと思うはずなのである。

でも、そうできないのは、それは他でもない、好きじゃないことをやっているから、である。そんなんだから、流し作業になってしまってまうのである。

だから、平山的視点で言うと、まずはシナモンロールだけを感じて食べようか、ということだ。暖かいシナモンロールの食感、コーティングされたシュガーの甘さ、「あぁシナモンロール美味しいな」とささやかな幸せを感じようではないか。

そしてそれは、鏡写し的なもので、女子大生だけでなく、自分自身にも言えることだ。

自分も、ご飯を食べるのと動画を見るのがセットになっているし、スマホを見ながら風呂に入るし、ポッドキャストを聴きながら散歩をする。

情報を入れよう入れようとする社会、そしてそれを気づいたら望んでしまっている自分がいる。

そんな情報供給過多な状況から抜け出すために、ミニマリストとか断捨離とか、デジタルデトックスとか、田舎に移住するとか、アナキスト的な生き方とか、色々流行ってるんだろうと思うが、要は今あるものを味わったり感じたりすることが大切なんだと思う。

ご飯を食べるときは、ご飯をしっかり味わう。
映画はできるだけ映画館で見て、全身で感じる。
散歩をするときはイヤホンを外して、鳥のさえずりや風の音を聴く。

そんな事を少しでも意識してやってみたいと思いましたね。


ここからはやや穿った感想を二つほど。

一つは、奴隷精神の美化的側面について。

日本は世界的に見ても綺麗な国として有名だが、これはおそらく、日本人の精神性が関係していると僕は睨んでいる。

かつてはアメリカと肩を並べるほど、世界を征服するほどの力を持っていた日本は、戦争敗北と共にアメリカの文化や価値観が流入した。

そして、アメリカに支配され、『アメリカが上で、日本は下』的な風潮、日本人に罪悪感や劣等感を植え付けられた歴史があるような・・・。

そんな風に考えてしまうと、この映画は、海外の監督が日本人のトイレ掃除の取り組み方を美化することで、日本人の奴隷精神を促進させるものではないかと思ったりもした。

二つは、プロモーション的な側面。

元々はTOTOのトイレ事業の宣伝用のショートムービーとして作られる予定だったこともあり、かなりファンタジックに美しく描かれているような気がしないでもない点。

持っている小説を褒めてくれる姪っ子、好みの音楽を褒めてくれる女など、ちゃんと平山自身の自尊心を満たしてくれるストーリーになっているという見方もできるし、最後の結末もどこか都合が良過ぎるようにもみえた。

まぁ、でも映画だし、それくらい許してあげようとも思うし、何人かキャラを用意しないと流石に映画として成立しないのも事実としてあるだろう。





最後に、同じく役所広司主演の「すばらしき世界」と、今作を比較したい。

今作を鑑賞中、平山が「すばらしき世界」の三上とどうしても重なってしまい、序盤いつブチギレるかヒヤヒヤした。

だが、実際は、全く違う人物だった。

三上は、感情の帰結として怒り、そして暴力に変換されてしまう人間だった。自分の存在意義、居場所、生き方を探し求めた。

一方の平山は、小さな感情の変化を受け止めて、微笑むような男だった。自分の存在意義、居場所、生き方を見つけていた。

両者ともに、社会的には理解されにくい、あるいは偏見の目を持たれやすい人たちだったが、三上と平山の内面には大きな違いがあるのだった。


あと、これは言わずもがなだが、今作の注目ポイントは、役所広司の演技力だろう。

大前提として、役所広司は日本を代表する俳優の一人であり、富、名声、そして実力もある男だが、そんな男がなんでこうもトイレ清掃員を演じられるのか・・・。正直すごいというより、驚きとか謎の方が強かった。「こういうおじさんいるわ〜」となる程の恐ろしいリアリティに、これはカンヌ男優賞とるわ、と思った。日本人が選ばれるのは2004年の「誰も知らない」の柳楽優弥以来のことらしいが、世界が認める演技なんだと、同じ日本人として少し誇らしい気持ちにもなった。
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