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エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

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イタリア版BD。23-157。円熟のベロッキオを堪能。しかもテーマが政治と宗教と個人とくれば、まさにベロッキオ節。ところどころに幻想が入り込むのがベロッキオらしいのだけど、気を衒うことはなく、映像による物語に深みをもたらしてくれる。まさに円熟。

物語の始まりはイタリア統一以前の1851年。そこから1870年のローマの占領を経て、1878年のピウス9世の死、そしてその数年後にエドガルド・モルターラが母の死に立ち会うところまでが描かれる。134分だけど、テンポがよく、映像も美しい絵巻もののようで、あっという間。

歴史的背景を知っておきたい向きには、日本語の参考資料として早川書房から『エドガルド・モルターラ誘拐事件』(デヴィッド・カーツァー著、2018年)が出版されている。歴史的な背景にも言及されていて、当時の政治状況やユダヤ人の置かれていた様子がよくわかる。この本の帯には「スピルバーグが映画化」と書いてあるが、映画化したのはベロッキオだったわけだ。

それにしても、スピルバーグならどう描いたのだろうか。ユダヤ人よりに描いたのだろうか。ちょっと想像してしまう。ベロッキオの場合は、カトリック的な精神に深く入り込みながらも批判的の立場といえばよいのだろう。そのベロッキオが、スザンナ・ニッキャレッリと脚本を書きながら参考にしたのが『Il caso Mortara(モルターラ事件)』(Daniele Scalise著)。翻訳はないがE-Bookで購入できるのだけど、ベロッキオ自身が言うように、この本は記述はよりカトリックよりの立場から。

そこにベロッキオ/ニッキャレッリの脚本は切り込む。たとえば、ピア門の裂け目からイタリア軍の侵入(1870年)という歴史的な事件を、エドガルド兄が弟を救出に来るシーンに重ねる。ここに描かれるのはカトリックでもユダヤ教でもなく、10年の間に成長して大きくことなる道を歩み始めた兄と弟の再会。

そしてピオ9世の葬列。父なる存在に服従してきたエドガルドが、あの天使の橋をわたるあたりで「棺をテヴェレに投げ込んでしまえ」と叫ぶ反教権主義の一団に襲撃されるのだが、あろうことかエドガルドは彼らととも教皇の亡骸に反抗してみせるのだ。おそらくはベロッキオお得意の幻想なのか。

そしてエドガルドの母親のこと。教皇が第二の父だとしても、母はどこまでも母なのだろう。すっかりカトリックとなった息子だが、どこまでもユダヤ人であり続ける母だけは諦めがつかない。そこをベロッキオ/ニッキャレッリの脚本が残酷なまでに突く。信仰によって救いをもたらそうとすることが、結局のところ「おためごかし」だという残酷。それだけではない。母の愛も、母への愛も、おなじように「おためごかし」なのかもしれないという残酷でもある。

そうなのだ。ここでは誰もが譲らない。教皇は世俗の力に対して「Non possum」(我々にはできかねる)と拒絶を示し、カトリックとなった息子はユダヤの家族にもどることを「自分にはできかねる」(Non posso)と拒絶し、その母もまた息子が差しのべようとするカトリック的な救いを、どこまでもユダヤ人として拒絶する。

描かれるのは、激動する時代にあって、対立する宗教や政治信条のなかで、どこまでも拒絶を通さざるをえない個々人の群像。なるほどベロッキオがこの映画のタイトルを「Non possum」としたかったわけだ。

追記:10/28

東京国際映画祭。シノザキさんに空きがあるよとメッセージをもらい、日比谷のヒューリックホール東京へ。初めての会場。映画館じゃないな。劇場だ。スクリーンが遠い。でもやはり映画は大画面で大音量にかぎる。家ではこうはゆかない。

2000円。ちと高い。でもその価値あり。だってベロッキオだもん。2回目だけど、だからこそラストに泣いた。画面の左にエドガルドが座り込む廊下、右側に死の床にある母。わかり合いたいのに、どうしても分かり合えないふたり。そこに人の内面の問題がある。

これをイタリア語ではモラーレ(morale)という。プロデューサーのパオロ・デル・バロッコは、このモラーレという言葉を繰り返す。ロルバケル、ガッローネ、モレッティなどの作品もプロデュースしたという彼だけど、共通点は人間を探ろうとする意欲にあるというようなことを言っていた。つまりモラーレを問う作家たちだということ。

そういう意味で、このイタリア19世紀末の複雑な政治的宗教的状況を背景に語られる物語は、日本で問題になっている「宗教と政治」はもちろん、遠いところで見守るしかないぼくらを焦燥させる「パレスチナとイスラエル」のことにもかかわってくる。なにしろそこには人間内面、精神、つまりモラーレの問題があるからだ。

救いがないわけではない。ユダヤ人が殺したのだという十字架のキリストのもとにのぼり、その足と手を打ちつけてある釘を抜くエドガルドの姿。そしてゆっくり十字架を降りて、立ち去ってゆくキリストの姿。シノザキさんによれば、それは『夜よ、こんにちは』のラストシーンにある解放されたモーロ元首相が幻想のなかに歩くところにそっくりだというのだ。

なるほど、十字架から解放されたキリストの軽やかな足取りは、赤い旅団から解放されたモーロのそれに重なる。ベロッキオは、ほんとうは処刑された元首相を、W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』登場する「歩み行く女」(グラディーヴァ)のように歩かせたかったのだという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/グラディーヴァ

ほんとうは死んでいるのだが、それでも、またそうであるがゆえに、軽やかな足取りで「歩みゆく女」。それはキリストでありモーロなのかもしれない。ここではキリストが立ち去ったその瞬間に、エドガルドと同じ部屋のベッドで伏せっていたシモーネが逝く。死ぬことだけが解放だったのか。

エドガルドに「ぼくは死ぬのかな?」と尋ねていたシモーネ。女の子のような男の子。その棺に寄り添う母の表情は、マリアよりもマリアのようではないか。彼女はユダヤ教から改宗したのだ。だから葬儀のミサに参列できたのだ。しかし、シモーネの母はキリストの母ではない。みせかけの改宗は、我が子にユダヤの印を持たせるため。だとすれば、その印をもってシモーネは、幻想のなかのキリストやモーロのように、彼岸へと解放されたのだろうか?

ここにも母と子のそれぞれが、それぞれの解放を夢見ている。ラストのエドガルドと母のように。

2024/2/7・京橋試写室

お誘いを受け京橋の試写室で3回目を見る。見れば見るほど発見がある。感動するシーンが増える。原作ものだけどベロッキオの姿もはっきり浮かび上がる。ニッキャレッリもいる。

音楽がこんなによかったのか感激。会場のスクリーンは小さめだったけれど、音響は悪くなかった。

そして「シェマ・イスラエル」(聞け、イスラエルよ)の祈り。カトリックのラテン語の祈りと、トーラーのヘブライ語の祈りには字幕がつかない。おおかたのイタリア人にもヘブライ語の意味はわからない。ラテン語は少しわかる。そうは言っても、意味は重要だ。

 その最初の一節は「聞け、イスラエルよ、主は私たちの神、主はただ一人」とあり、ユダヤ教の一神教のエッセンスを凝縮したものであるけれど、キリスト教においても重要視されたことだ。敬虔なユダヤ教徒にとって、このシェマーはもっとも重要な祈祷であり、宗教的な戒めとして一日に朝晩の二度、そして人生の最後ときにも唱えるのだという。

https://it.wikipedia.org/wiki/Shemà

 その祈祷に合わせて、ユダヤの人々が「アーメン」(かくありたまえ)とヘブライ語で応じるのは、キリスト教でも同じ。同じなのに、かくも隔てられていたということ、そしていまもなお隔てられているということ、それを痛感させられる。

 これはイタリア語の授業に使いたい映画。いやほんと、本気で4月のイタリア語イタリア文化の講座で使おうかな。
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