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エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命の708のネタバレレビュー・内容・結末

3.8

このレビューはネタバレを含みます

教会の話でこのヴィジュアルだから、どうせまた司祭が少年に性的虐待をする話なんだろうと勝手に思ってましたが、まったく違ってました。

1858年にイタリアのボローニャで実際に起きた事件。ユダヤ教徒のユダヤ人家族から突然カトリック教会に連れ去られ、キリスト教徒として学校で教育されて育てられた6歳の少年エドガルドの話。家族も教会から改宗を迫られて、実質エドガルドは人質という感じです。

エドガルドが生まれて間もない頃、使用人のキリスト教徒の女性アンナが善意の気持ちから、エドガルドに勝手に洗礼を授けてしまい、受洗者はカトリック教育を受けなければならないというルールによって、それを聞きつけたカトリック教会に連れ去られてしまったのです。絶対原理の名のもと、絶対権力を振りかざして行われた拉致や誘拐という犯罪です。幼いからこそ順応性が高いことを教会側が知っているからこそ、こういう連れ去りの教育が横行していたんですよね。神聖であるはずの教会にはどことなく不穏な空気がずっと漂い、音楽もホラーのようでした。

家族は必死にエドガルドを連れ戻そうとするものの、エドガルドは教育後もカトリック教会に忠誠であり、改宗して自らも司祭になったのですが、第二の父親のローマ教皇ピウス9世の操り人形になることは拒んでいたのだそう。そして、残りの人生を通じて敬虔なユダヤ教徒の家族を改宗させようとしたのだそうです。病気の母親を見舞い、聖水を片手に洗礼を授けようとするエドガルドはその一部。母親はエドガルドの申し出をきっちりと断ってます。

宗教2世の話題をニュースで目にするときにも思うのですが、信仰って本人の自由意思だと常々思うんです。いくら家族であっても同じ宗教である必要はないし、本人が信仰したいものを信仰すればいい。信仰の押しつけや無理強いから、神聖さや敬虔さは宿らないと思うんです。

パンフレットのマルコ・ベロッキオ監督のフィルモグラフィで、作品がいくつか抜け落ちているのが気になりました。
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