しょうた

エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のしょうたのレビュー・感想・評価

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人々の目から涙が流れる。その美しさ。これは涙の映画、またキスの映画。

信仰は人々の生活を律し、強い共同体を形作る。それは時に、人々の対立を生み、権力を生み、強力な政治勢力ともなる。そこから生まれる歴史のドラマ、その面白さ。重厚なコスチュームプレイの見応え。

だが、この映画の真骨頂は何よりも、人が成長の過程で自己を形成してゆく内面のドラマ、その葛藤だろう。
大人数の兄弟で遊んでいた鬼ごっこを、やがてカトリックの仲間の少年たちとするようになる。かつて母親のスカートに匿われた幼子は、司教の法衣に隠れさせてもらう少年となる。人の人生がどのように更新されるのかを象徴的に描いているだろう。

少年がいつから、寝る前のユダヤの祈りをしなくなったのかは描かれない。(そうした行間を想像させるところが、この映画のうまいところでもあるだろう。)たぶん、気づいたらしなくなっていたのだろう。あるいは、キリスト像の釘を抜き、キリストが歩き出す姿を夢に見た夜だったのかもしれない。
ベロッキオの「甘き人生」では、少年が教室で宇宙が存在することの不思議さを語る忘れ難いシーンがあった。それと通じる少年の崇高なものへの想像力をベロッキオは大切に描いている。

やがて少年は青年になり、法皇に体当たりしてしまい、信徒たちの前で屈辱的な謝罪をさせられる場面。(あの体当たりは何だったのか、今もわからないが。)意識下に隠された恥辱は、やがて群衆の「遺体を川に投げ込んでしまえ」の声に呼応することで爆発する。だが、自分がわからなくなり、その場から全力で逃げ去りもするのだ。
だが、彼は生涯、幼い日に魂で出会ってしまったキリスト教から逃れることはなかった。

母は臨終の床で「ユダヤ人として生まれ、ユダヤ人として死にたい」と語った。
それは自由な意思の選択とも言える。
だが、人間にとって自由とは何だろう。それが、この映画の大きな大きなテーマにも思える。
ベロッキオは「人間の中には矛盾がある。それは人間の豊かさとも言える」と語っている。その言葉がこの映画を表してもいるだろう。
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