耶馬英彦

エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命の耶馬英彦のレビュー・感想・評価

3.5
 宗教は、宗教団体になった途端に、権威主義に堕し、場合によっては政治にまで影響力を発揮して、人々を不幸にする。本来は人間を不安や恐怖から救い出すはずの宗教が、宗教団体自身を守るための大義名分となってしまうのだ。だから宗教団体の歴史は、人類の不幸の歴史でもある。
 本作品は、宗教団体とそれに属する人々の盲信の恐ろしさを上手に描いていると思う。最初から最後まで、登場人物の愚かしさが目立つ。結局、カトリックはタリバンと同じなのだという印象もある。ユダヤ教徒にも容赦がない。父親や母親が示した盲信は、現在のユダヤ教徒にも脈々と受け継がれているのだろう。愚かな人しか登場しないから、だんだん嫌になってくるし、宗教が恐ろしく思えてくる。

 何より恐ろしいのは、宗教団体による洗脳だ。洗脳は権威に裏打ちされ、弱い人々は権威に逆らうことができず、やすやすと入信してしまう。宗教団体は、組織をヒエラルキー構造に仕立て、仰々しい儀式をたくさん創作する。それが権威となる。どんなに愚かに見える儀式でも、大勢が同じことをすれば、一定の影響力を生む。
 本作品が問題にしているのは、儀式の中でも重要視されているバプテスマ=洗礼だ。ひとたび洗礼を受けた者は、その瞬間にキリスト教徒となる。赤ん坊でも同じことだ。それがキリスト教の宗教団体の考え方であり、布教の手段でもある。
 洗脳されてしまった人間は、権威の前に跪き、自分の価値を貶めることで従順を誓う。そして階級の高い者から言葉を貰うことで、無償の行為に対する褒美とするのだ。逆に言えば、権威を保つために、団体の中で高位の者は、強制的に信者を跪かせる。または立ち上がって礼をさせる。裁判で、裁判官が入場するときに全員を立ち上がらせるのも同じ理由だ。国家という権威の前に畏まれというのである。

 こういう作品をみると、つくづく、宗教はその役割を終えたのではないかと思う。オリンピックはいらないという議論が世界的に起こっている。宗教はいらないという議論はまだ報道されていないが、密かに広まっていると思う。先進国では、無宗教の人が増えている。日本では結婚式のときはキリスト教や神道、葬式のときは仏教の儀式を使うが、日常的にはほぼ無宗教だ。それは先進国の人々の多くが、衣食足りた生活をしているということに由来するのではないかと思う。
 極言すれば、貧しい人々、困っている人々、抑圧されている人々の中で、宗教が広まるのだと思う。アメリカの黒人解放運動で活躍したキング牧師はキリスト教徒、マルコムXはイスラム教徒、日本の天草四郎はキリスト教徒だ。一向一揆の百姓たちは浄土真宗の信徒だった。

 生活が向上し、人権が遍く認められる世の中になれば、宗教は不要なのだ。いや、正確に言えば、宗教団体は不要である。人々の心の問題に、一個の団体が深く関与して、束縛したり金銭(寄付)を要求したりするのはおかしい。
 それに、宗教団体同士の争いは、時として戦争にまで発展する。幻想に過ぎない宗教が、これほどの力を持つようになったのは、宗教団体が作り出してきた権威によるところが大きい。

 人間は弱くて、権威の前にひれ伏してしまう。権威が権力を持っていたら尚更だ。アフガニスタンの貧しい人々は、武器を持って権力を乱用するタリバンに逆らえない。そして、いつかアッラーが助けてくれると信じている。そのアッラーは、タリバンがイスラム原理主義で想定しているアッラーとは、おそらく別のアッラーだ。宗教は人々の心の中にあるだけで十分なのである。
耶馬英彦

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