河

アッシャー家の末裔の河のレビュー・感想・評価

アッシャー家の末裔(1928年製作の映画)
4.4
https://www.cinematheque.fr/henri/film/48361-la-chute-de-la-maison-usher-jean-epstein-1928/

アッシャー家の末裔であるロドリックの妻が病気だという知らせを受け、医者はアッシャー家の屋敷へと向かう。

アッシャーの家系には妻を絵画に写し取らないといけないという衝動が呪いのように継承されている。そしてその絵画が完成すると妻は死ぬ。それによってアッシャーの家系は消えつつあり、ロドリックがその最後の末裔となっている。そして、その滅びゆく家系が朽ち果てて行くアッシャー家の屋敷と重ね合わされる。

ロドリックは妻の姿を鏡のように絵画の中に移して行く。それによって、妻の魂がその絵画の中、鏡の中の世界へと移されていき現実世界の妻は魂を失って行く。鏡のような生命を持った妻の絵画が完成した時、妻は魂を完全に失い動かなくなる。

そして、その鏡の中の世界は屋敷を囲む自然の中に超自然的な世界として存在しているように描かれる。屋敷の周囲の自然はその世界に生命を吸収され尽くしたように、枯れて荒れ果てている。さらに、その超自然的な世界は風として、屋敷の窓から中へと侵食し屋敷を朽ち果てさせていく。その別世界は鏡、窓、絵画など、枠を入り口として屋敷の中へと入り込む。妻だけでなく、屋敷、そしてその周囲に存在する生命全てがその超自然の世界に吸収されていく。

妻を埋葬する過程が超自然的な世界、死の世界へと近づいて行く過程のように描かれ、映像自体が非現実的で黙示録的なものへと変化して行く。そこに、2匹の重なったカエルとその捕食者であるフクロウがそれを見つめる姿が挿入される。フクロウをその超自然的な世界、2匹のカエルを医者とロドリックとして、その別世界が2人を吸収しようと狙っていることが示される。

魂を奪われつつある妻の姿は、多重露光によって分裂するように映され、その分裂した姿が絵画の静物的な妻の姿へと変化して行くことによって表現される。妻の埋葬後、ロドリックは屋敷自体が同じように分裂していくヴィジョンを見る。妻だけでなく屋敷も超自然的な世界に奪われそうになっていることに気づく。

超自然的な世界による吸収はアッシャー家に宿命づけられた運命となる。風と共にその世界が屋敷に侵食してきていることが風と共に移動するカメラの主観ショットによって示される。その風と蝋燭によって屋敷は火に包まれる。

その火が妻の絵画を燃やしたため、妻はまた魂を取り戻し戻ってくる。そして妻と共に医者とロドリックは屋敷を脱出する。超自然の世界に吸収されるように屋敷は崩壊し、その象徴であるフクロウは夜に紛れて姿を消して行く。また、その超自然の世界は天の川によって天空、死後の世界へと続いているように映される。

アッシャー家に宿命づけられた運命として超自然的な世界への吸収があり、その運命から逃れ出て行く映画となっている。

ただ、なぜ逃れられたのかがいまいちわからないし、その超自然が最後の侵食において発生する火災で妻を絵画から解放してしまうなら、ロドリックを操って妻の魂を吸収する理由がない。
火が上がることがその超自然の意図しないもので、そのおかげで妻が意図に反して解放されてロドリックを助けたということだとしたら辻褄は合う。

[追記] エドガーアランポーの原作ではロドリックは屋敷の崩壊と共に死んでいき、医者のみが生き残るらしい。また、女性は妻ではなくロドリックの姉妹で同じくアッシャーの血をついでいるらしい。だとしたら、その超自然の世界(フクロウ)に目をつけられ、吸収されることを運命づけられた家系がその運命に抗うこともできないまま、屋敷、周囲の自然と共に崩壊し吸収されていく話として自然だと思う。この映画では、その運命から逃れ出る話、打ち勝つ話として改変されている。

アッシャー家に潜む超自然的な世界のオーラのようなものが、ショットの切り替わる速度の調整、スローモーション、ズーム、フィックスのショット、不自然に移動するカメラによって表現されて行く。同時に、衝動に取り憑かれた瞬間、妻を失ったことに気づいた瞬間など、ロドリックの内面も演出的に表現される。

冒頭、その別世界の存在するアッシャー家周辺の自然のショットから始まり、水たまりによる鏡のような医者の姿の反射に続く。その反射は医者の向かう先が別世界と接続された家であることを示唆する。その後、アッシャー家に近づくとより大きな水たまりが現れ、同じく鏡のように医者と馬車の姿が映る。

ドイツ表現主義映画においては、権力的な大きな存在によって操られ抑圧されることによって個人が分裂し現実から遊離して行く。その分裂は鏡によって表現されるが、それは像を二つに分けるだけでなく、遊離先の別世界が鏡の先に存在していることを示しているということにこの映画を見て気付いた。

ドイツ表現主義映画において、個人を操る大きな存在はあくまで別世界や現実世界とは切り離された存在であり、別世界はあくまでも現実から遊離された世界として能動的に動くことはなかった。
それに対して、この映画では別世界=大きな存在となっている。別世界=大きな存在が主人公を操り抑圧する。そして、分裂させる、現実から遊離させることで自身の世界へと吸収する。同監督の『三面鏡』も同じく鏡の中の世界、人間の理解の及ばない世界が現実世界へと侵食してくる映画だった。

映像としては、ドイツ表現主義にスローモーションなどの複数の演出手法を足し合わせたようなものとなっている。ムルナウが発見し、フリッツラングがその一枚絵的な画面のために見過ごしたカメラ移動の快楽はドイツ表現主義の影響下にあるフランスの監督たちが引き継いでいったんだと感じた。
河