ヨミ

落下の解剖学のヨミのネタバレレビュー・内容・結末

落下の解剖学(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

科学的な分析、ということばが序盤の検死時に言われる。しかし、それは事実を明かさない。結局のところ、ひとりの死を巡る結審は「事前に喧嘩があったのか」などの予兆探し(つまりそれが殺人か自殺か)に終始していき、検察と弁護人は互いに「お前のいまの発言は主観的であり、客観的な事実はこれである」と言い募る。事件の唯一の証人である、視覚障害の息子は、最初からその聴覚に期待を寄せられるが記憶は容易に嘘をつき、その客観性は本人の主観性のなかで常に揺れ動く。そして最終的な記憶を呼び覚すのは聴覚でも視覚でもなく、フランスで伝統的に記憶連想を促す嗅覚であった(ここではマドレーヌではなく犬の吐瀉物だが)。つまり「喧嘩」の問題点であった「夫が妻を自分の母国フランスに連れてきた(それを我慢している)」自体そのものが、嗅覚による連想という手段によって助け舟となりさえした。
ずっと印象的だったのは色とピアノ。落ち着いていながらも彩りよい色合いは画面設計の意志を感じさせながら(恐らくこれは構図やカメラズームの使い方やカメラの選択と含めて分析を誘惑する)、それでいてすっと入ってくる。そしてピアノは親子の揺れ動きが表象されており、息子が十分に自立している(連弾を拒み困難な曲をひとりで弾く)ことを示し続けていた。
さて、真実はわからない。常に客観性などというものは存在しないから。司法の現場はとりあえず妥当な箇所を絶えず探し求めなければならない、という言ってみれば喜劇的な場なのだと訴えかけられ続けているようだった。
解剖したところでそこに何もないのであった。
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