Hiroki

枯れ葉のHirokiのレビュー・感想・評価

枯れ葉(2023年製作の映画)
4.4
ついに私の2023年間(2023年に公開/配信された映画)TOP10完成!
長かったー。
タグ #10Best2023 を付けているので気になる方はそちらを。

とりあえず邦画は宮﨑駿のアニメ1本のみ。『少女は卒業しない』『福田村事件』『怪物』『ベイビーわるきゅーれ2ベイビー』とかアニメの『BLUE GIANT』など良い作品がたくさんあったけど、今年はさすがに海外勢が分厚すぎた。
スペシャルメンション的に選外にしたのは『ファースト・カウ』。ケリー・ライカート作品でこれ素晴らしかったのだが、日本以外では4年も前に公開された作品なので2023年としては除外。
あと『ぼくたちの哲学教室』はドキュメンタリーで内容的に順位をつけるような物ではないと判断したのでこちらも除外。
2つとも素晴らしかった事は記録したい。
ちなみにベストは今作と迷ったのだけどトッド・フィールド『TAR/ター』でした!あの初めて観た時の衝撃は忘れられない。

という事で本作。
引退を撤回して銀幕に帰還したアキ・カウリスマキ最新作。
私はカウリスマキのビッグファンなので昨年のカンヌコンペに出品されると聞いた時から心が躍っておりました。
しかもこの作品が公開された2023年12月はケリー・ライカートとヴィム・ヴェンダースの新作も映画館にかかっていた。
この3人の新作が日本で同時に映画館で観れるなんてまるで奇跡。
クリスマスプレゼントすぎる。

今作を観てカウリスマキファンがまず驚いたことはおそらく携帯電話やPCが出てきたこと。
テクノロジーを否定していた彼は現代を描きながら、それらを今まで描いてこなかった。
テクノロジーの描写を排除した彼の世界観は現代なのにどこか寓話的。そのバランスが美しいくらいに絶妙。
唯一無二のアートワークも相まって素晴らしい世界を作り出していた。
そんなカウリスマキ映画に今回携帯電話が!
本人いわく、

「この歳になって現代の実社会との関係性を少し妥協しなければいけなくなったんだ。少しだけね。」

かっこよすぎです。
もちろん携帯電話はスマホではないし、PCはMacBookAirではありません。
ラジオからはウクライナ情勢が常に流れてきて、2020年代を強く感じさせるのにスマホとテレビもない。
初めて観る人は少し奇妙に思うかもしれない。
しかしテクノロジーが入ろうとも、カウリスマキの様式美は完璧に保たれている。
美しい。

もう一つ私が驚いたのは物語の内容。
引退を撤回して『ルアーブルの靴磨き』『希望のかなた』ときていたいわゆる“移民3部作”のラストを撮ったのだと思っていた。
しかし中身はラブストーリーだった。
“労働者3部作”を想起させるのようなその日暮らしの男女の恋。
そしてさらにそこから社会問題への提起へと発展した“敗者3部作”をも内包しているように感じる。(本人は今作が「パラダイスの夕暮れ2.0」と言われている事に対して「これは素晴らしいパラドックスで3部作の4作目だから」とふざけて言っていたみたいだけど。)
2017年の引退宣言の後にパンデミックが全世界を蝕み、隣国(彼の国フィンランドはロシアの隣)で、さらにシリア/イエメン/パレスチナと世界ではどんどん戦争が拡大していった、
彼の中にどんな心変わりがあったのだろうか。
この悲惨な世界を目の当たりにして彼は何を思ったのだろう...

もちろん彼の素晴らしいまでのエッセンスは枯れるどころかさらに研ぎ澄まされていて、例えばそれを感じるのが食器の使い方。
表情や動きの少なさで有名な彼の演出で鍵となるのは小物の使い方などのディテール。
主人公のアンサ(アルマ・ポウスティ)がホラッパ(ユッシ・バタネン)を家に招待する際にスーパーで食器とカトラリーを1人分買うシーンがある。
彼女はその日暮らしをしていてお皿やナイフ&フォークが自分の分しか家にない。
このワンシーンだけで孤独を描く。
しかしそれは希望と隣り合わせでもある。
お皿やナイフ&フォーク、スプーンやグラスが1つずつから2つずつになっていく。
そうして出来上がったのがポスターに使われているシーン。
これだけで絶望と希望の両面を描くのがカウリスマキ。
さらにこのあと2人に別裏が訪れる。
そこを描くのはもちろんお皿とナイフ&フークを捨てるので充分。
あまりに美しい。

もう一つはやはり“郷愁”といかに向き合うのかという事。
現在テレビドラマで、ある有名脚本家による「昭和の男が令和に物申す」という内容の作品が放送されているのだが、個人的にこれは昭和世代の「今って生きづらいよな」感が漏れ出しただけで全然面白くなかった。コメディだからそこまで言うべきじゃないのかもしれないが、私はハラスメントへの認識が甘過ぎて辛かった。
とても未来へ生きる人たちへ観てほしい内容ではない。(1話で離脱したのでその後別の方向になっているのかもしれないが...)
カウリスマキは過去への向き合い方でこんな事を話していた。

「私にとって映画というのは若い時代の自伝のようなもの。敗者を描く時、やはり私は私自身を描いている。恥ずかしがることなくね。」

カウリスマキは自分を冷静に見ている。
シネフィルからどんなに熱烈な愛情を受けても彼は裕福ではない。
アニメーションやSWやMCUで途方もないお金を生み出しているメジャー企業とは違う。(「あれは映画ではなくテーマパークだ」とどこかの巨匠に揶揄されていたのが記憶に新しいが...)
彼の動きが少ない演出も映画予算の少なさから由来しているであろうし、キャスティングの際の賃金も自分で計算している。
物質的な社会でやはり自分のような人間は“敗者”としての側面があるとしっかり認識している。
だからこそ、その事実を恥ずかしがらずにちゃんとスクリーンに映す。
でも世界はそれだけではないという事も同じか、それ以上にスクリーンに映している。
彼自身は首都ヘルシンキから遠い辺鄙な街に友人と共同で映画館を運営し、大好きな犬と共に、自分の納得のいく映画を作りながら暮らしている。
これのどこに貧しさがあるのだろうか?

日本には昔から“清貧”という言葉があり、昨今では非常にバッシングの種となっている。鴨長明の時代なら良かったのかも知れないが、現代では清く貧しくではダメなんだと。
では“正貧”ならどーだろうとか考える。
“正”は“清”とほぼ同義の「道理にかなっている」という意味ではなく「きちんと整っている」という意味の方。
きちんと整っていて貧しい。
決して裕福ではなくても、しっかり必要なモノは整っている。無駄がない。
まさにカウリスマキや彼の映画はこれを体現しているように感じる。
(ちなみに“清貧”にも「余分な物を求めずに」のような意味もあるらしい。)

彼はこれからも何も変わらないだろうし、彼の映画が大好きな私たちも何も変わらないと思う。
ただ1本でも多く彼の作る映画を観ていたい。それだけで充分。
うん、そんな人生で充分な気がする。

最後にカウリスマキが放つ最も強力で大切な言葉を。

「愛をもう一度勝たせてやろう」

2024-12
Hiroki

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