あのサウンドは私たちの退屈な日常への警笛である。
3/10の先行上映で鑑賞。
評価が難しい一本になりそうで、これからの追記も多いかと思う。
序盤は非常に退屈を感じた。
何せ、一般的(とは言い難いかもしれないが)な裕福な一家庭の日常ドラマとして映画が構成されているから。
何かその日常に物語的なハプニングがある訳でもなく、ただただ予想出来る範疇の会話劇が続いていく。
遠くで銃声や何かを脅かす音が聴こえるが程なくして目新しさは消えてしまい、当前にある音として直ぐに慣れが来た。
直ぐ現代への痛烈な批判として作られていることを理解した。
上記の言葉の一字一句を私達の経験として置き換えることが出来るから。
私たちのルーティン的な日常に対岸から銃声や爆撃音がテレビを介して聴こえてきたとしてどの様にして反応するだろうか。
そしてラストシーン。決してその時代のビルケナウ収容所を描かない姿勢、全てを終わらせた未来を見るルドルフの嘔吐。
ルドルフが未来を見ていると考えていたものの、映画という媒体を通して私たち(未来)がルドルフ(過去)を観ていたのだと思う。
ガス室にユダヤ人を閉じ込めた様に、兄が弟を温室に強制的に閉じ込める。非常に残酷なワンシーン。
全て現代に対するカウンターであるように思う。
(コロナ前、実際に強制収容所を見学に行ったことがあるが広島・長崎の原爆資料館と並んで一度は行っておくべき場所だと思う)
また、恐らくこの映画以上に不快なエンディングクレジットはない。
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音について言及しなければレビューを終えることは出来ない。
この映画が実験的たらしめている部分だと思う。
正直なところ序盤では日常の退屈さ故に少し眠気が来てしまった、しかしそこに挿入される爆発の様なシンセの不気味なサウンド。眠気も吹き飛んでしまう様な。
この映画は決して所長一家を追体験させるものでは無いと思う。
何故なら退屈な日常に浸らせたいのであれば、眠気の続くシーンを垂れ流しておけば良いだけで、そうしたギミックは必要がないから。
あのサウンドは私たちの退屈な日常への警笛。そう考えています。