keith中村

北極百貨店のコンシェルジュさんのkeith中村のレビュー・感想・評価

5.0
 まさに「愛すべき小品」という言葉を具現化したような映画でしたよ。
 上映時間70分。同じく現在劇場に掛かっている作品でいうなら、スコセッシがオセージ族連続殺人を描いた映画のわずか三分の一の長さに過ぎない。
 
 映画って不思議なもので、どれだけ長かろうが短かろうが(特別興行やIMAX等のオプション上映を除けば)同じ値段でしょ。
 本作が「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」の三分の一の値段というわけではないし、あっちが3倍高いわけでもない。
 さらに言うと、名画の誉れが高いと値段があがるというわけでもない。もしそうだったら、「市民ケーン」とか「ゴッドファーザー」なんて、「庶民に手の出せないプレミア価格」に高騰しているかもしれないわけで。
 
 「おれ、『カサブランカ』観たんだ」「うわあ、お金持ち! ベンツ買えたじゃん!」
 そういうことになってないのは、映画が絵画や彫刻など一点もの芸術ではなく複製可能芸術であることのありがたさなんだな。
 
 複製可能芸術としては小説もこれに似てるけど、あっちはもう少しクールで即物的。ページ数が増えれば増えるほど高くなる。紙という、物理的な原材料費に比例してる量り売りの世界。ここが映画との違い。映画はスクリーンを占拠する時間の長短に関わらず一律価格。
 まあ、書籍も映画と似てるのは、同じ200ページの文庫なら、駆け出しの作家でも歴史的文豪でも値段は同じってところか。内容の権威で値段が上がったりはしないよね。
 「おれ、『罪と罰』買ったんだ」「うわあ、お金持ち! ポルシェ買えたじゃん!」なんてことはないのです。
 
 前置きが長くなりましたが、さて、本作は一見すると「ズートピア」とよく似た趣向に思える。
 ただ、観てるとちょっと違うぞと思えてくる仕掛けになっています。「ズートピア」における「種」の違いは、かなり直喩的に人種の違いを描いているんだけれど、こちらはもっと「動物そのもの」を描いているから。
 もちろん、登場人物はすべて人語を喋る人格を与えられているし、人間のようにふるまう。
 しかし、ずっと観ていても何かの社会的暗喩であるという感じが全然しないのですね。
 
 やがてその理由は作品内で語られ出す。
 いわく、19世紀、世界が大量消費時代に突入すると、人間の欲望のために様々な動物が絶滅してしまった。それと軌を一にして、人間の消費欲求を拡大する「百貨店」という装置が登場した。
 ここ「北極百貨店」は、絶滅してしまった動物たちに人間と同じく百貨店での快適さを味わってもらうための場所だ、と。
 
 なるほど。そりゃいくら観てても「ズートピア」のようなメタファーが感じられなかったわけだ。
 この物語はそのものずばり絶滅種について言及していたのだから。
 
 絶滅種への贖罪の場所が「北極百貨店」であるなら、つまりはここは動物たちの「天国」なのですね。
 だから、コンシェルジュをはじめとする百貨店のスタッフはみんな種を滅ぼした人間であり、客はすべて動物。
 何度も秋乃さんに踏まれるペンギン(じゃなく、オオウミガラスだっけ)のエルルさんは百貨店の経営者に見えるんだけど、あれは違うんだろうね。いわば動物たちの、あの世界の神なんだろうね。
 
 ところで、秋乃さんたち人間スタッフはどういう立場なんでしょう。
 あそこが天国だとするなら、人間スタッフもやはり死者だということになります。しかも、冒頭や終盤のエピソードから想像されることは、まあまあ夭逝した子供たちなんだよね。
 「せっかく天国に行ってるのに、楽な思いもできず、他人のために奮闘してるってどうなの?」なんて考えもあるでしょう。
 でも、天国の平和さってそういうもんじゃないかな。
 どこぞの宗教では「天国に行くと72人の処女にかしずかれて幸せになる」なんて教えてますが、たぶん天国ってそういう利己的な場所じゃなく、利他的な行いをすることで自分も幸せになるという優しい場所なんだと思います。
 それこそ地獄に堕ちた罪人どもを搔き集めてきて百貨店スタッフをやらせたら、とんでもないことになっちゃう。だから、偏見を持つ前に亡くなった子供たちを優しい天国に招待してるんだ。
 
 自由や平等や平和って、畢竟利他的な考えや行動からしか生まれないと思うのね。
 
 本作の中にマンモスであり芸術家であるウーリーさんが「すべての動物を同じ身長に作った彫刻群」が登場します。
 これも本作が描く平等性と優しさの可視化にほかならない。
 最初に書いた「映画の鑑賞料金の平等性」って、このくだりを見てて不意に考えたことなんだけど、やっぱ映画館って天国みたいに優しい場所なんじゃないかね。
 
 さてさて、本作で唯一の悪役と言えるクレーマーが登場しますが、劇中ではそれがその絶滅種の性格に起因するものだと説明され、決して一方的な悪としては描かれません。彼女をクレーマーにしたのは秋乃さんの接客にも原因がある、と叱責されてましたよね。
 あそこってすごいラジカルな描写だと思った。あの種を現実世界で絶滅させたのも、本作でクレーマーにしたのも、どちらも「人間による過度な介入」ということなんだもん。それは同じことだよ、って秋乃さんに言ってるようなもんだもん。
 もちろん、それは現実のサービス業においても同じことが起こりうるであろう「リアルさ」を持っているし、ひいては接客だけでなく、すべての人間同士の関係性にも適用できる普遍さを含んだ警句だったので、私はちょっと唸ってしまった。
 
 さらに本作が見事なのは、本作が滅んでしまった動物や滅びゆく動物を扱いながら、その舞台に百貨店を据えているところ。
 最初に書いたように、百貨店はまずは大量消費時代の人間の欲望の象徴という、それこそロメロのゾンビ2作目と同じ趣向になっているんだけれど、現代では百貨店そのものがこれまた絶滅危惧種になっているわけですよ。
 経済成長とともに生じた「中産階級」は、大量消費を後押しし、良くも悪くも経済を活性化させた。
 現代はすでに「中産階級」がものすごく薄い層になってしまい、極端な二極化が進んでいる。経済は停滞している。
 そうなると、百貨店のサービスなんてものは、もはや必要じゃないんですよ。ネットでも何でも安くて手っ取り早く入手できれば良い。購買にコミュニケーションなんか必要じゃなく、欲しいものが手に入ればいい。
 コンシェルジュ自身が、百貨店自体が、存在意義を失いかけている。
 私の知っている何人かの富裕層は、いまだに家にやってきてくれる外商を通じてしかモノを買わないですよ。まあ、羨ましい身分なんですが、彼らはみんなかなりの高齢者。この世代がいなくなれば、百貨店の外商を通じて買い物をするなんて文化もなくなるのかもしれないね。
(もしかしたら、ここを読んで「外商って?」ってなる若い人もいるかもね)
 
 つまり、本作はある世代を滅ぼした次の世代が滅びの危機に瀕しているという皮肉あるいは寂寥を描いてさえいるわけで。そこがほんとに見事でした。
 
 予告篇を見て、何だかふわふわしてて優しくて幸せそうな映画だな、という興味だけで観てきましたが、ほんと文字通りの「愛すべき小品」でした。
 ややこしいことをだらだらと書いてしまいましたが、もうそんなこと関係なく作品に体を預けるだけでいいです。
 劇場でも何度もクスクス笑い声が起こってて、そりゃもう幸せな時間でした。
 
 秋乃さんがわちゃわちゃ泡喰ってるところを見てるだけで楽しいし可愛いし、全速力で走る秋乃さんだけ突如フルアニメになるところもめっちゃ面白い。
 お子さんが見ても絶対楽しいだろうし、お子さんが見ても絶対に感じることはあると思います。
 これはもう満点しかありません。