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ジャン=リュック・ゴダール 反逆の映画作家(シネアスト)のmayのネタバレレビュー・内容・結末

3.0

このレビューはネタバレを含みます

ゴダールの映画、わたしは特に、アンナを映したものがすき。わたし(観客)が見たいアンナを、ゴダールは、的確に映し出してくれるから。
そうでないもののなかでは、カラビニエ、パッション、カルメンという名の女、などが、

ゴダールの人生については、なんとなく、知っていたけれど、改めて、ドキュメンタリーに映し出されたゴダールを見ると、彼がどんな人生を歩んだのかは分かっても、彼がどんな人間で、何を考えて生きていたのかは、やっぱり分からなかった。それは、彼自身が、彼自身を演じていたようなところがあるからかもしれない。

彼が、もし、自分の人生について、ドキュメンタリーを撮ったならば、批評や表象だらけになる気がしている、

もしくは、「映画とは何か」を考え続けて、それ自体を映画にしてきた人だから、彼の人生のドキュメンタリーは、彼の「映画史」になるのかもしれない。

ゴダールは、象徴的な彼らしい言葉をたびたび使う。その言葉を解釈しようとしても、いつも、煙に覆われてしまったように、彼に到達することができない。きっと、ゴダールの映画のそこに惹かれている。わからないから、映画が終わったあとも、その映画について考え続けて、そのうちにまた、もう一度、観たくなってしまうのだ、


memo
・ドキュメンタリーを見て、いつも思うのは、「ある人(監督)が切り取った、ある人(対象者)の物語」だということ。事実の断片で構成されていたとしても、それは、あるひとつの創作された物語だ、

・シナリオのない映画
台本がないから、ゴダールは女優の耳にイヤホンを通して、言葉をささやいていた。女優は、言葉を発するだけの、ただのメディアとして機能しているみたいで不思議、
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