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ティン&ティナ -双子の祈り-のhorahukiのレビュー・感想・評価

3.7
記録です。

『エスター』『ローズマリーの赤ちゃん』『グッドナイトマミー』あたりの影響を感じさせる子供怖い系ホラー。結婚式当日にお腹の中の双子を事件で亡くした夫妻が、修道院から双子を養子に迎える。いつも笑顔でキラキラした双子だったが、徐々に違和感のある行動が増え始める…。

幼さ故の信仰の曲解。そこに善意と無邪気さが同居することで、善悪二元論では単純化できない凄惨な事件が引き起こされる。双子がその犯人であると名目上は進行するものの、2人は非難を憚られるほどの純粋さを纏い、それとは相反する形で残される残虐な結果とのギャップが映画全体にやるせ無い嫌な空気感を醸成する。

信仰・年齢による行為の正当化(2人の悪行を事実と認定した上での、その「行為」に対する評価)、敬虔な信徒は悪行を犯さない・子どもは悪行を犯さないという宗教的・年齢的フィルター(そもそも2人は悪行を犯さないというレッテル貼りに近い大人たちの願望)が作中に通底しており、それぞれの大人が立脚する立場の個別性によって許容度が異なるものの、いずれか(あるいは両方)の観点を各々が独自に取捨選択して適用することで、いずれの観点も持たない主人公の認識と周囲の大人たちとの乖離が生まれ、それがフラストレーションを巻き起こし物語を牽引していく。これらは子供怖い系ホラーの常道ではあるものの、信仰だけに留まらず子どもの狂信要素を含めて複合させているのは珍しいように思う。

そして、この主人公が両方の観点を持っていないということが本作の主題に繋がっている。結婚式の際の異様なまでにシンメトリーを徹底した構図と、俯瞰的視点のカメラ(神の視点/作中何度も登場する十字架のキリスト像を見上げる視点へと引き継がれる)によって宗教的・信仰的安定を画面全体に纏わせ、そのカメラを見上げる主人公の視線は神との交錯。この際の満面の笑みは、「事件」を経て子を失った後にベッドからキリスト像を見上げる主人公視点と対比される。この時点で主人公は宗教・信仰フィルターを失ったわけだけど、子どもに対しては盲目的な信頼(ある種の信仰)を持っているように写る。それは孤児院で双子を受け入れる際に孤児院の空間には嫌悪感を抱きつつも、双子に対しては、異論を挟む夫とは違い、ひと目で受け入れを決める態度にも現れている。

一方で、「子ども」に関しては普遍的フィルターを失ったのではなく、あくまでもこの2人に対する個別的フィルターを失うという仕方で主人公は違和感を募らせていくことになる。大前提として主人公と相容れない信仰を2人が絶大に纏っていること、それはベッドで声が届かないという形でも、圧倒的な価値観の違い・立脚する世界観の違いとしても現れている。決定的な出来事はクキに関することなのは間違いないのだけど、むしろ通じ合えていたことの方が少ないくらいに相克の存在として描かれていたように思う。


以下、ネタバレ

そして気になったのは主人公が孤児院に入るキッカケとなった火事。異様なほどの後光をバックに一瞬語られるのみなのだけど、語った後の主人公の不穏な表情を、違和感を引きずる程度には長くカメラが捉えていた。さりげないけれど存在感のあるこの演出に何ら意図がないとは考えにくい。あくまでも可能性として、主人公は両親を亡くした火事に関わっていたのでは無いか。ただ、恐らく積極的に殺害を企てたというよりも過失によるもので、その罪悪感を今でも引きずっているように感じる。片足がないことのみをもって「普通で無い」と自身を形容することにも違和感が残る。

そう考えると、本作の展開およびクライマックスに一本筋が通ってくるように思う。孤児院から双子を受け入れる際の主人公の前のめりな姿勢は、孤児院にいた自身を重ね合わせていたのではないか。2人を受け入れる=過去の・幼少期の自分を救うという、過去と今のリンクが心内に発生していた可能性がある。そして孤児院で顔の半面に火傷を負っていた少女を意味深に見つめる視線もまた、あの修道院という場は自身の過去(罪)を思い起こす場として機能していたのでしょう(逆に火傷の少女から見つめられるということは、過去の罪が責め苛むことと同義といえる)。そうであれば過去の自身を救うこと、そして罪悪感の反動として、孤児を受け入れることに前向きになったのでは無いか。

2人に対して違和感が積み重ねられていく中盤以降は、前述の「観点」の喪失も去ることながら、自身の罪を2人にダブらせ、「子=親を殺すもの」といった表象が形作られていったことも主人公の猜疑心を募らせることを後押ししているように思う。そして過去の事件と同じくクライマックスはやはり火事で、親が死亡する。火事を起こした犯人を双子と決めつけるのは、自身の過去(自身による失火で親を殺してしまった過去)を今作の事件で再見しているからだと思われる。だからこそ、2人の罪ではないという「赦し」の言葉はそのまま自身の両親殺害の罪を否定するものとして主人公に作用し、過去の自分を受け入れる=双子を受け入れるという展開となったのでしょう。『グッドナイトマミー』のようなラストシーンは、双子を通して過去の自分に赦しを齎したことを暗示するもので、直前の事件で雨が降っていたことは主人公に対する洗礼の意味があったのだろうと思われる。

そしてなぜ夫は死ななければならなかったのか。直前に離婚の話が出ていることからも明らかな通り、主人公はあの時点ですでに夫を見限っている。これは唐突なことではなく、夫婦の関係性の悪さは序盤から何度も描かれている。双子を受け入れる際にもどこか商品を購入する消費者のような価値観が見え隠れし、子育てにも上辺のみ参加するだけで何の相談にも乗ってくれない。こういった価値観の相違だけでなく、双子が家に着いた際にクキの名前を夫婦双方が個別に双子に対して説明する点でも2人は心的にバラバラで連携ができていないことが匂わされるし、双子とニコニコしながら家に向かう夫とは反対に妻が荷物を持たされていること、クキ殺害後の対応、プールサイドでの顛末等々からも、『来る』の夫のように表面だけいい顔をする夫・父親像が見えてくる。そして、もしかしたら主人公の両親も同様だったのではないか…とも邪推できる。

だからと言って死ぬほどの理由は全くないんだけど、本作は前述したように主人公のセラピー映画なので、心の中で形成された表象により物語が作られている寓話的創作物であると考えた方が良い。そしてここで考えなければならないのが、本作の「赦し」は本当に完全無欠な「赦し」なのか…ということ。あの双子が本当に人殺しに一切関与していないとはどうしても考えにくい。闇の中での三人の笑顔は、闇の中であることも含めて「負」の印象を受ける。そして夫の死を嘆くのではなく、2人の無実に歓喜する危うさ。この辺りを勘案すると、「真実」から意図的に目を逸らし、自分に都合の良いマヤカシを信じることで精神的勝利を得ただけなのではないかと思われる。全ての罪に蓋をし、自分にとっての理想郷を作り上げて閉じこもる。序盤の結婚式の時の笑顔とラストの笑顔は恐らくリンクしており、最初に「結婚」という理想郷に閉じこもろうとしたが失敗→第二の理想郷としてラストを迎えた。それが本作の帰結なのではないかと感じた。

評判悪いけど、意外と面白かった!
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