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⾼野⾖腐店の春のmochiのレビュー・感想・評価

⾼野⾖腐店の春(2023年製作の映画)
4.3
全然存在を知らなかった映画だけど、機内で日本語の映画が観たかったため、鑑賞。すごく良い映画だった。話の動きも少ないし、話の筋書きを説明すると、とてもシンプルになる。ともすると説教がましく、押し付けがましくなりそうな映画のテーマを、そのように感じさせていないのは、主人公2人とそのパートナー的な存在になる2人の演技のうまさと、街並みを重点的に撮るカメラワークのなせる技なのだと思った。その意味で、構造の新しさや斬新さは薄いかもしれず、キャストと技術に依存するところは大きいかもしれないが、上質なので良いものを観た、という感想になる。
人間関係において、媒介するものと媒介されるものの関係は固定的なものではない。それは単に、場面によって入れ替わるもの、という意味だけでなく、同じ場面においても、媒介するものとされるものの関係は、多義的である、という意味においてである。例えば、中野の電話を受けて、高野父に高野娘が喝を入れ、高野娘が走ってタクシーを捕まえるシーン。このシーンでは、高野父と中野を結びつける役割を、高野娘は担う。しかしながら、高野父と高野娘の関係を、中野が媒介する、という見方も可能である。高野娘は中野との結びつきがないにも関わらず、タクシーを捕まえるために全力を尽くす。これは、高野父の高野娘に対する不安を、観客に対して解消する役割を持つシーンである。自分の知らない人であるにもかかわらず、自分の知り合いの知り合いであるということを理由として、全力を尽くすという行為は、その知り合いに対する深い気持ちがなければ難しいはずであり、この事実が高野父に対する高野娘の思いを表現するのである。また、中野のピアノのシーンも多義的に解釈できる。中野の行為を媒介するのは高野父の助言であり、その助言により中野は喜びと孤独からの部分的解放を手に入れる。しかし、この挑戦による成功という行為はまた、高野父の豆腐を高野娘に作らせるという行為の端緒となるものでもあり、その意味で高野父は媒介される存在でもある。中野と高野娘が不自然なほど絡まず、同じ画面上に映ることがないのは、両者の媒介における働きが、より積極的な仕方で描けれるようにするためであり、その意味でこの試みは成功している。
よりおっきいテーマは変化と継続かな。変わらないこともあれば、変わることもある。変わらない方が良いところもあれば、変わった方が良いところもある、という。
広島が舞台で、高齢者が出てくる時点で、原爆のことに触れないのは不自然となるが、その部分にしっかり触れていたのは良かった。一方で、舞台を広島にしてこのテーマを含める意味があったのかはわからない。
4人とも演技良かったけど、中村久美さんは別格だった。こんなふうに歳をとれたらなぁという代表のような存在。上品すぎて現実感がないといえばない気もするが、それでも彼女本人が本物の存在のように見えた。もっと彼女の出ている映画を観たいと思った
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