宙崎抽太郎

佇むモンスターの宙崎抽太郎のレビュー・感想・評価

佇むモンスター(2023年製作の映画)
5.0
【佇むモンスター】北田直俊監督

この映画は事件だった。この手触り、足触りは何だろう。このギシギシ、ザラついたコンクリ石のような触感。何故、手作り感満載の怪物たちがゾンビ映画より怖いのか。きっと現実に、地面に足がついているからだ。否、人間が怪物であるということを知り抜いた映画だからだ。地に足のついた映画だから、逆に、日常の境界に生息する淡いへと溶け出し、揚力を得た際の怖さが半端ない。痛くて、悲しくて、逃げ場がなく、ホラーというより事件で、それでいてメルヘン。事件でありながら詩になっている。無骨な逃げのないカメラワークに日本海を思わせる黒がギザって白が刺さるガチ北陸カラー。思いつきが大事件に発展していく畝り。お、おもろかった。めちゃ感動した。あとで、チラシ裏見たら、「そのアパートには亡くなった母娘が住んでいた」え!てか、生きとったやん(似非関西弁)!とツッコミ入れたくなるが、何とも表現できないゴリっとした石塊のような感触の正体はここにある。こんな感じを受ける。涙腺刺激され顔面が強張った。足裏にザラついたコンクリの凹凸を感じる映画。あ、そやた、友達がパンと花持ってきたとき、お供えみたいで、おかしい、パン普通地べた置かないし、てことは、もう死んでたんか。。時空すんなり入れ込み二重螺旋。コンビニで夫のガチギレに崖っぷちに恥ずかしい涙目のリアリティが生きてる怪物に根を下ろしている。この途轍もない映画は何だ!と胎内市の夜空に問いたい。物語ではなく事件だ。しかも、事件の痛みを残したまま、詩に昇華されている。傑作である。

そ、そうだ。この映画、Jホラーという括りだが、霊も、怪物も、実際には、一切出てなくて、怪物的な人間、怪物を被った人間は出てきても、人間しか出ていない。ホラーな部分は、人間から滲み出る想像の輪郭だけである。もしも、この映画が、ホラーに認定されるのであれば、ジャンル破壊だ。ジャンルの垣根に挑戦し、成功している点において、根幹として、【佇むモンスター】は実験映画なのだ。

映像詩が挿入されても、すべて、現実文体で描かれているから、造形がぶっ飛んでいても、否、逆にだからこそ、実録的な怖さが、ひしひし、皮膜するのだ。ホラー映画文体は、主人公の自主映画監督の作品の中で、すでに、十分遊ばれており、その文体に馴染まない、外にある、文体ではない、摂理としての現実文体で描かれている。しかも、「犬≒コロちゃん」が、ただ、犬として、これだけ風格を扱われる作品もない。役割ではなく存在として存在している。

そうだ、瞬間、ゲームか、何がで、リング、貞子の主題歌が、3秒流れる。ホラー映画は、ホラーを主眼にするが、この映画は、ホラーのような現実を描いていて、あくまでも、ホラーではなく、現実を描いているのだ。そこが、途轍もなく怖い。しかし、怖いのに、残るのは、束の間の楽しかった日々。痛々しく。これが映画だ。破壊力抜群。
宙崎抽太郎

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