レインウォッチャー

四月になれば彼女はのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

四月になれば彼女は(2024年製作の映画)
3.0
ある四月の朝、藤代(佐藤健)のもとから、結婚目前だったはずの弥生(長澤まさみ)が前触れなく姿を消す。学生時代の恋人・春(森七菜)から10年振りに届いた手紙と、何か関係が…?わからないまま、ひとり残された藤代は理由を探し始める。

「愛を終わらせない方法は何か?」それは、手に入れないこと…つまり手に入れたと過信しないこと。
最後まで見届ければ、そんなメッセージだったり、弥生と春の行動の関連付け、を《理解》はできる。のだけれど、《納得》はしづらい、と思った。その理由は、たぶん主人公である藤代の魅力のなさに集約される。

いや、もちろん顔面が佐藤健である時点でハイパー魅力的ではあるのだけれどそういう意味ではなくて、物語のキャラクターとしての説得力の薄さ、と言い換えようか。
弥生が結婚を前に踏みとどまってしまった背景にある、いわば藤代の瑕疵ともいえるポイントについて、弥生の妹(河合優実)やバーのマスター(仲野太賀)は手厳しく指摘したりするのだけれど、なんていうか「それだけ」なのだ。外からの台詞による補足説明で「ああ、彼はそういった性格の人物だったんだな」とラベルが貼られるだけで、彼自身の行動やエピソードによって巧く表現し切れていないと思った。別に普通の人じゃない?って思っちゃう。

これが演出のせいなのか、佐藤健の演技による結果なのか、はわたしには判別がつかないのだけれど。上記の点の他にも、藤代という人物の輪郭を形作るために割かれている時間は(弥生や春といった女性陣に比べて)少ないのは確かだ。

結果、彼を中心とした弥生と春という過去と現在は、うまく結び付き切ることなく終わってしまう。
確かに透明感のある映像には目を奪われるし、春の手紙をはじめとする端々のモノローグ、言葉には重みと響きが感じられる。しかし、中身が伴わないまま上滑りしている印象が残ってしまい、惜しいところで物語の中で意味を成す《詩》に届いていない。過程を何段かすっ飛ばして結果だけ見せる、《キング・クリムゾンッ現象》の一種といえるだろう。

藤代は精神科医であり、劇中では「なんで医者って自分のことは解決できないんでしょうね」みたいに自嘲する場面があったりするのだけれど、皮肉にも映画全体がそんな感じで、自己診断が不足しているといえそう。あるいは、原作を読んでおけば(わたしは未読)もっと脳内補完が進んだのかもしれないけれど…。

このへんでちゃんと長所も書いておくと、繰り返しになるものの画力の強さには疑いがない。全体的にアースカラーが中心の端正なトーンの中、春の身につけるものにはいつも鮮やかな赤が使われていて、映画を通したワンポイントとなって彼女が物語の鍵を握ることを示している。

春が巡るボリビア・プラハ・アイスランドといった名所の遠景を生かした演出をはじめ、光の捉えかたにもMV監督らしい趣向が凝らされていて、引き込まれる。
こんな感じなら、いっそ和製テレンス・マリック的な映像詩として振り切る方向に舵を切ったほうが良かったんじゃあないだろうか(このキャスト使いでそんなことは望むべくもないとわかりつつ)。

あとは何と言っても、EDを〆る藤井風の『満ちてゆく』。なんかもうほとんどこれを良い音で聴きに行ったと言っても良いしそれで良い。
正直、この楽曲は映画本編以上にシネマティックで、情動が雪解けの泉のように湧き上がる。和も感じるようなはらはらとしたメロディの中、ところどころに配された彼らしいテンションの響きが胸の端っこを擦っていく、まるで三寒四温。イントロのピアノ、練習してずっと弾いてます。