みささん

裸足になってのみささんのネタバレレビュー・内容・結末

裸足になって(2022年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

屋上の向こうに広がっているのが海だとわかるまで、時間がかかった。砂漠とか、(ポスターにあるような)熱帯林とか、そういうのを見れるのかなと思ってたから。
フーリアの挫折から立ち直りまで、そこまで詳しく描かれないんだな、と意外でもあった。怪我してから、割とすぐにリハビリに励んで、仲間もできる。
その仲間たちが、「バレエダンサーになる夢と声を奪われた」以上の心の傷や、障害を抱えていることを知る。そして生きていることを賛美するように、美しい森の風景。木漏れ日と、白いワンピースと、いろんな肌の色の女性たち。ハリマが自分の息子に別れを告げたからか、森には雨が降った。

ソニアが髪に差す赤い花がいつも美しい。海を渡ってスペインへ行くのだと夢見る彼女の、自己表現なのだと思った。声を失ったフーリアを支えて、励まして、一緒に遊んで、簡単な手話も覚えて。最後までフーリアの言いたいことを、目を見て一生懸命理解しようとしていた。深い友情と愛を感じる。そのフーリアと、もしかしたら一生会えないかもしれないとしても、ソニアは海を渡ることを選んだ。彼女は夢を夢で終わらせなかった。自分の人生を自分で選んで生きるために。
ソニアとフーリアの別れのシーンを見ながら、考える。数ヶ月前、私の大切な人が、親友を自死で亡くした。彼は最後に、親友とこうした別れもできなかったのかと思うと、やりきれない思いになった。

ソニアを見送ったフーリアに、さらに良くない出来事が降りかかる。終わりが見えない不穏な空気感。でも、フーリアは生きようとする。フーリアも自分の人生を自分で選んで、ここで踊ることを決めたから。
ソニアと遊んでいたような青のオーガンジーで、みんなのドレスを作る。とても美しい。たぶん一番年上で一番問題を抱えていたハリマが、初めて見せる着飾った姿。踊る時、こうやって衣装を着たり、メイクをすることも、歓びに含まれるんだよなあ、と嬉しくなる。
女性同士で美しさを賛美し合ったり、キスしたりハグしたり、労わって優しい指先で触れ合うことの、特有の安心感があると思う。バレエ教室や、ソニアとフーリア、フーリアと母、施設のみんなを見ながら、そういうのを思い出した。搾取されない安心感。繊細で、やわらかな友情。私たちが肌を合わせて静かに育んだそれは、簡単なきっかけですぐに奪われてしまうものだ。

そしてソニアとフーリアのあの別れが、本当に一生の別れだったことを知る。ソニアを乗せて海を渡ってくれる、タツノオトシゴのタトゥー。別れの挨拶ができたからって、それが傷を小さくするわけじゃない。何がソニアを殺したのか、わからない。何に怒ればいいのか。
それをフーリアは全部、踊りに込める。たとえ、鏡やフローリングや屋根を奪われても。

最後、日が暮れた屋上にキャンドルを灯して、自分たちで作ったステージで、フーリアが仲間たちと踊る。あの青いオーガンジーで作ったみんなの衣装は海だった。そして一人ゴールドを身に纏うフーリアが、名前のとおり「自由」そのもの。海に阻まれて、溺れる恐怖が付き纏っても、「海」によって「自由」を手に入れた、ソニアへ捧げる踊り。

フーリアの踊りを見ながら、途中からあり得ないくらい涙が込み上げた。もし映画館じゃなく自宅だったら、隣に友人がいなかったら、嗚咽して、映画が終わってもしばらく泣き続けていただろうと思うくらい、自分でも理由がわからない涙がとにかくあふれてあふれて止まらなかった。これを書いている今もまた泣いている。アルジェリアの情勢も、フーリアの挫折も、詳しく描く必要はないのだと思った。この踊りに全て込められているから。

もっと、踊りを通して仲間たちと交流したり、傷と向き合って立ち直ったり、そういう「過程」を見る映画なのかな、と思っていたのだけど。「踊り」を捧げて「鎮魂」する、という、もっと原始的ないとなみを表現した映画だった。女性たちの主体的な選択が作りあげたあの踊りが、頭に焼き付いて離れない。
触れ込みは「生きる力」「再生」「甦る」「強くなる」ということだが、なんかそういうことじゃない気がする。再生もしないし強くなれなくても、私たちは自分で選んで自分の人生を自分で生きていくんだということだと思う。失ったものが戻らなくても、その代わりのものが手に入っても入らなくても。裸足になって、生きることを賛美する。
みささん

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