冒頭のCollaborationの数にどこまでエリセが提供者と制度的なしがらみから映画を完成させたといったことも頭の隅に置いておいても決して出来の良いものとも思えない。
たとえ上海ジェスチャがスタンバーグを想起しても夜の人々、リュミエール、リオ・ブラボーのライフルと愛馬を持って、映画の中の映画なんていう耳障りの良い浅はかな言葉は決して使いたくはない。
ほぼ切り返しのショットにあって、テレビシーンで見られるような2台のカメラでクロスして撮影されていると思われる、ポン寄りにしても寸分違わず動作の連続性が保たれていかにも映画の文化がもたらしたイマジナリーラインと撮影の経済性が再現されている。
しかし例えば、未完に終えた「別れのまなざし」でトリストルロワとフリオの切り返しに城で奉公されているであろう中国人のショットが差し込まれた後に、背景に足込のショットをインサートで入れて、次のカットで本来の切り返しのショットに戻って時間の整合性や経済性、合理性から遠く離れ、事によったら繋ぎ間違いと思わせるショットがある。
また後半、いよいよ高齢者施設に俳優のフリオを発見した後の食事シーンではほぼ正面の切り返しに耐え、これもテレビシーンのような経済性や合理性から遠く離れて、視線のズレが生じている。
終わり方もみて、これらが容易に「切り返し」や視線の見る見られるというテーマをという事を感じ取るのは簡単だ
単純な切り返しという制度的に導入し、映画的な経済性と合理性を持たねば未完の映画すら作る事が困難なエリセの少しの抵抗であるとも個人的に思ってます。
しかしそれを頭の隅に考えても本作が映画に帯して貢献したとも思えず、
エリセがどの程度、本作に対して力を行使出来たのか、彼が単純に衰えただけなのかそれは今となっては分からないしそれとスコアにはなんの相関関係もあってはならない。