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瞳をとじてのAPlaceInTheSunのレビュー・感想・評価

瞳をとじて(2023年製作の映画)
4.7

◇あらすじ◇
映画監督ミゲルがメガホンをとる映画「別れのまなざし」の撮影中に、主演俳優フリオ・アレナスが突然の失踪を遂げた。それから22年が過ぎたある日、ミゲルのもとに、かつての人気俳優失踪事件の謎を追うテレビ番組から出演依頼が舞い込む。取材への協力を決めたミゲルは、親友でもあったフリオと過ごした青春時代や自らの半生を追想していく。そして番組終了後、フリオに似た男が海辺の施設にいるとの情報が寄せられ……。

◇感想◇
[映画についての映画]
ここ数年、名だたる映画監督達が手掛けてきた〈映画についての映画〉。
その作品群に連なるものと言えるけど違う。これは「映画への讃歌」「映画バンザイ」的なものではなかったです。実に重く切実な、映画へ執着心と恨みと、最後にはやはり〈映画の持つ魔法(或いは奇跡〉への信頼が込められた一本でした。
しかと受け止めます。でも咀嚼しきれません。
ビクトル・エリセは中々映画を撮らない寡作の監督と言われているけど、撮らないのではなく、撮れなかったのだと痛感した(ニワカファンですみません)。

[入れ子構造]
この映画においては、〈映画の本筋・劇中映画・製作者およびキャストの状況〉が折り重なる入れ子構造になっていて、作品の奥行きをもたらせています。
まずは、長年に渡り映画製作をできず隠居生活を送る作家である主人公ミゲルはそのまま、ビクトル・エリセの自画像と誰もが想像するでしょう。
また冒頭から長尺で映し出される劇中劇(劇中映画)である『別れのまなざし』内では父親が失踪した娘を捜す物語が展開されている。これは本筋のストーリーでミゲルが失踪したフリオを捜すのと呼応している。ただ『別れのまなざし』内で捜索依頼をうけるフリオが本筋では捜索される側になっていて、ミゲルは息子を亡くし、フリオは子供とは離ればなれになっていて、家族との喪失という共通点でつながる。本筋の登場人物と劇中映画内人物の相似形と微妙なズレがある。
そして古参の映画ファンにとって本作の一つのフックになっている感のある、『ミツバチのささやき』でアナ役を演じたアナ・トレントが38年越しの今作でもアナという名でキャストされているという点。ビクトル・エリセにとっての、アナ・トレントにとっての、この38年間という時間の重みが、ドシンと作品にのしかかってくるという。
意地悪な見方をすれば表層的なファンサービスとも受け取られかねないこの配役、私は本作鑑賞後に読んだ監督のインタビューで「『ミツバチのささやき』にキャストしたことで私はアナ・トレントの人生に大きな影響を与えてしまったのかもしれない」という旨の発言を目にした事で、ビクトル・エリセ監督なりの彼女への落とし前の付け方だったのだと受け止めました。

[老い・アイデンティティ]
〈映画についての映画〉であり〈老い〉や〈アイデンティティ〉についての映画でもあった。ミゲルが隠居生活を送る海辺のヒッピーコミュニティで、夕食を食べながらカップルが産まれてくる子供の名前をあれが良い、それはダメよ、何かに因んだ名前は嫌いだ、とか喋り合ったり。精神科医がミゲルに「大事なのは名前じゃなく魂だ」なんて話したり。
ある人物をその人物たらしめるのは何か。名前は記号に過ぎないなら何がその人物を規程するのか。
妻と娘を捨てて失踪したフリオは誰なのか。記憶を無くしフリオではなくガルデルと呼ばれて老人施設で働く彼は誰なのか。

一方のミゲルはどうなのか。映画監督をやってこその自分だ、と自負しているとしたら『別れのまなざし』が撮影途中で頓挫してからの長い時間は、彼の空白の期間ともいえる。
失踪した人を捜すテレビ番組からの依頼という偶然からフリオを捜す事になるこの物語が、ミゲルの空白、つまり未完に終わった『別れのまなざし』や自分の映画監督としてのアイデンティティ、フリオと過ごした日々を捜し求める旅になっていて、とても地味ではあるが端的に言って面白い映画だと感じた。

[座って会話する二人の切返し]
この映画が失踪した親友を捜す、または親しい家族を喪失した人についての物語であるとすれば、その対比としてなのか、〈今、ここにいる人との対話〉〈久しぶりに逢えた大切な人との再開〉を愛おしく映すのが印象深い。
何度も何度も繰り返される、座った人物二人による切返しのショット。
バストショットから寄って顔をアップに映す、向かい合って座っていたと思えば座り直して横に並んだり、
アングル、引きから寄り、2人の座り位置を微妙に変えながら切り返しのショットを積み重ねる。

[映画についての映画(その2)]
『ミツバチのささやき』『エル・スール』も映画に纏わる物語だったのだけど、『瞳をとじて』は映画そのものについての映画。
フリオを捜しだす手がかりとして『別れのまなざし』のフィルムを確認すべく再開した旧友の映画技師マックスとの会話では、フィルム映画やフィルムの映写機などが、時代遅れのものだと扱われる。

そもそも、本作冒頭の『別れのまなざし』が『ミツバチのささやき』『エル・スール』の情感あふれる油絵画のような至高の映像で見せといて、
現代パートになると、ベタッとした平板な撮影になるいう。この映像の質感の差異を見せつける事が「かつてあなた方が愛した映像ってこれではないの?今あなた方が配信で見る映画ってこんなに無味乾燥じゃないですか??」と、監督の思いではないのか?これも意地悪な見方をすればだけど。

[終盤〜ラストについて]
この映画、中盤まではあくびがめっちゃ出たんですよ。めちゃくちゃ面白いんだけど、話に派手さは無くじっくり進むし、会話の一個一個とかショット一つ一つに釘付けニなるし思考が掻き立てられるんです。あくびって退屈さじゃなく、脳がもっと酸素をくれ!って要求してる現象らしいんですけど、まさにそんな感じで。
で、フリオがどうやら老人施設に居るぞという情報が入って会いに行く終盤から物語がドライブしていくんです。
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