現実が映画を超える。逆に、映画が現実を超える。多くの人にある経験だと思うけど、それらが起こるのは現実が感覚以上にフィクションに支えられているからだろうか。「記憶」や「名前」は当たり前に現実で語られるけど実態はない。それでも大切にする以上に、もはや自己を形成する部分として捉える人が多い。これは多くの人がフィクションが現実にもたらす力に期待していることの表れかもしれない。
一方で、フィクションが現実を突き放すように厳しさを見せる時もあるように思う。映画のせいで逃れられない現実の生々しさ悍ましさを考え込んでしまう事もあって、これは怖いと経験的にも感じる。
結局のところ映画の力ってなんだろう。映画に何が期待できるのか。本作はその事を問うていたと思うし、まさしく映画自体の映画だと言って良いように思う。
自分なりに映画との向き合い方に思いを巡らせながらラストシーンを迎え、映画の可能性に身を投じるようなミゲルとその映画を見るガルデル(フリオ)の姿に、濃縮された人間らしさを見たように思えて、ただただ打ちひしがれた。
エリセ監督は道筋を示してはくれず、勇気づけてもくれない。それでも、世界を捉える自分の眼差しそれ自体を意識する機会をくれて、いつも不思議な気持ちとともに感謝している。