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瞳をとじてのうべどうろのレビュー・感想・評価

瞳をとじて(2023年製作の映画)
3.3
ビクトル・エリセという眠れる獅子がごとき伝説の存在が、31年ぶりに手がけた長編。個人的には好きな“苦しい”映画だったけれど、たしかに過去の作品に活写された静かな雄叫びには及ばず、拡声された囁きのような印象だった。この作品にエリセはなにを託したのだろうか。

以下、ネタバレを含みます。

【3つの感想】
1.ビクトル・エリセの物語
2.映画はタイムカプセルだ
3.映画筋力という怖さ

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1.ビクトル・エリセの物語

多くの人が言及していることだが、この映画は「ビクトル・エリセ」そのものである。事実、彼は公式HPに次のような言葉を載せている。

半分は経験したこと、半分は想像から生まれた。
私は映画の脚本を、自分で書いている。
だから、私が人生において
最も関心を抱いていることが、
作品のテーマだと考えるのは自然なことだ。

物語の冒頭で描かれる劇中劇『別れのまなざし』で主人公が依頼主の生き別れた娘を探しに旅立つ先は、遠く離れた都市・上海。このことから、ビクトル・エリセがかつて上海を舞台にした『上海の呪文』(El embrujo de Shanghai)の映画化に取り掛かったが、プロデューサーとの意見の違いにより実現しなかったことを思い起こさずにはいられない。

その後同作はプロデューサーが『ベルエポック』などで知られる監督フェルナンド・トルエバのもとで映画化しているので、いわば、ビクトル・エリセにとっては”盗まれた”経験になったのではないか。あるいは、他者によって実現が阻まれた幻の作品。それはまさに、『別れのまなざし』とも通じている。

ビクトル・エリセの不遇でいえば、本作がカンヌ国際映画祭のコンペティションから漏れプレミア部門で上映されたことをめぐり、映画祭側の不誠実を訴えていたこともまた思い出される。

これらのことだけから、ビクトル・エリセがこの31年で経験し感じ考えてきたことを推し測ることは邪推かもしれないが、苦汁をなめ、言いようのない悔しさが込み上げてくる時間だったのではないかと、想像せずにはいられない。

『ミツバチのささやき』『エル・スール』『マルメロの陽光』という映画史に刻まれる傑作を生みだし、31年ものあいだ、結果的に沈黙することになったビクトル・エリセ。彼がなにに悩み、なにと苦闘し、なにを表現したかったのか。本作『瞳をとじて』はまさに、31年間にわたり彼が生きてきたことの表象ではないか。


2.映画はタイムカプセルだ

『瞳をとじて』では、”映画”という存在そのものが、幾層にも重なって描かれている。そして、そこに託されたのは「過去」を「現在」(あるいは「未来」)へと伝えるタイムカプセルとしての希望と絶望ではないか。

まず第一に、劇中劇である『別れのまなざし』がそれである。映画の終盤、主人公のミゲルは、記憶をほぼ完全に失ったかつての名優(盟友)フリオが過去を思い出す最後の希望として、失踪直前に撮影していた『別れのまなざし』を見せる。

それは、『別れのまなざし』に描かれた父と娘の再会というプロット、そして父の死に直面した娘がむける”別れのまなざし”によって、フリオが自らの娘であるアナのことを思い出してはくれないか、という祈りだ。

『別れのまなざし』に描かれたのは、若き日のフリオであり、それは同時に”老い”に恐怖するフリオの姿でもあった。そんな「過去」の姿を克明に記録してしまうのが”映画”というタイムカプセルではないか。そして、「現在」を生きるフリオは、その「過去」とどう対峙するのか。その接触が記憶を呼び覚ましてはくれないか。それはまさに、ビクトル・エリセが”映画”に託した希望ではないか。

その希望がもう1つのかたちとなって、『瞳をとじて』には描かれている。ビクトル・エリセの初監督作であり世界的な評価を獲得した傑作『ミツバチのささやき』で少女役を演じたアナが、同じくアナという役名で本作に登場していることだ。

女優アナは、当然のことながらもはや少女ではなく大人の女性へと年齢を重ねた。観客たちは、『ミツバチのささやき』という「過去」のアナの姿と、『瞳をとじて』という「現在」のアナの姿を、否が応でも重ねることになり、そこに女優アナの歴史を感じとる。

そしてまた、女優=『ミツバチのささやき』=『瞳をとじて』のアナは、「私はアナ」というセリフをもって、三者を同一人物として受け入れる。この構造をもっておそらく、ビクトル・エリセは、本作のテーマを「アイデンティティと記憶」と位置付けたのではないか。映画というタイムカプセルによって想起させられる記憶が、アイデンティティを統一するのかどうか。アナの場合は「私はアナ」という台詞をもって三位一体の関係性が成立している。

では、フリオの場合はどうか。映画の最後、フリオは『別れのまなざし』を観てなにを思ったのか。自分自身を思い出したのか。その答えは明らかにはならない。ただフリオが、”瞳をとじて”映画は幕を下ろすだけだ。

このことがなにを意味するのか。きっと観客によって解釈は違うだろう。そして、その考察の延長線上に、ビクトル・エリセ本人の”アイデンティティ”と”記憶”の問題が浮上するのではないか。

『ミツバチのささやき』を生み出したエリセと、『瞳をとじて』を生み出したエリセ、あるいは31年間も沈黙を続けたエリセは、はたして”映画”のもとで同一人物たりえるのだろうか。そんな嘆きにも似た問いかけを感じずにはいられない。


3.映画筋力という怖さ

もちろん『瞳をとじて』は良作には違いない。だが、おそらく多くの観客が、『ミツバチのささやき』『エル・スール』など過去の傑作と比べて、程度の差こそあれ、物足りなさを感じたのではないか。その理由を一つ一つここで考察していくことはしないが、僕が感じたことを2つ書いてみたい。

1つは感情の色調変化。『ミツバチのささやき』『エル・スール』では、「スペイン内戦」への”怒り”がたしかな筆致で描きこまれていた。それはたしかにエリセという個人に秘められた爆発するような”怒り”でもあるが、同時に、時代の、あるいは社会の、そしてスペインという国の”怒り”であったに違いない。いや、正確には”怒り”であろうとしたのではないか。

しかし、本作『瞳をとじて』に刻み込まれた”怒り”は極めて個人的な感情のように見える。だからこそ、この記事の冒頭で引用したとおり「私が人生において最も関心を抱いていること」がテーマだと、”公言”できるのではないか。あるいは、”公言”する必要があるのではないか。

もう1つは、”映画筋力”というものがたしかに存在するという残酷な現実ではないか。先日、短編映画を手がける友人と話していて、「映画を撮りたい」と「映画を撮っている」ということには埋めがたい断絶があり、後者でしか培われない(養い続けられない)ものとして”映画筋力”というものがあるのではないか、という話題になった。

考えていること、訴えたいこと、
をどう脚本にするか。
表現したいこと、見せたいこと、
をどう映像にするか。

総合芸術とも言われる「映画」とはそれほど高い壁なのではないか。それはエリセであっても例外ではなく、31年というあまりに長い沈黙は、やはり「眠れる獅子」のごとく、その”映画筋力”の衰えを引き起こしたのではないか。

と、こう書いていて、いろいろな監督の顔が浮かぶ。寡作にもかかわらず傑作を生みだし続けている人、”映画筋力”の衰えを感じさせてしまう人、多作だからこそ今もなお”映画筋力”を鍛え続けている人、などなど。

”映画筋力”の分析が必ずしも正しいとは思わないが、エリセがもっと映画を生み出していたら、と思わずにはいられない。
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